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平成の虚無僧一路の日記

母方「山室」家のルーツ B 

2021年02月13日 外部ブログ記事
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私は、子供の頃、毎年夏休みには、母の実家、会津の山室重遠伯父の家に遊びに行き、伯父から尺八の手ほどきを受けました。母の二番目の伯父「山室信朗」は、千葉大医学部を出て、千葉の国立療養所の医師を務めていました。その信朗伯父も尺八を吹いていましたので、私は、夏休み以外は土日に、千葉の伯父の家に行って、尺八を習ったのです。その伯父が言っていました。「千葉県には山室姓が多い。どうやら、山室は千葉の出のようだ」と。しかし、千葉の山室が、どうやって長野県の高遠に移ったのかが、わからず長年の疑問でした。会津藩祖・保科正之は、徳川2代将軍秀忠が、お女中に手をつけて生ませた子で、正室「お江」の嫉妬を怖れて、高遠の保科家に匿われて成長しました。「お江」が亡くなり、3代将軍・家光の代になってから、「兄弟」の対面をし、「弟ならば、東北の備えに」と会津藩主に大抜擢されたのです。会津は、山形米沢の上杉、仙台の伊達に対抗するため、徳川親藩として築かれた新興の藩でした。高遠の保科家は、わずか2万石の小藩でしたから 家臣はわずか 150人ほど。それがイッキに 会津23万石になったのですから、3,000人もの家臣団が募集されました。私の父方の「牧原」は 紀州徳川家から、小姓として入り、500石取りの側用人にまで出世しました。ところが、母方の「山室」は「信州高遠以来の家臣」と伝えられながら、なぜか「外様」扱いで、屋敷は「郭外(外堀の外)」。禄高は100石に抑えられてきました。その地名は「新横丁」でした。それが、長年の疑問だったのですが、千葉の下総、成田飛行場の南東に「飯櫃(いびつ)城」があり、山室氏の居城だったことがわかりました。しかも、なんと、小田原北条氏が滅びて、家康が関東に入封してきた時、家康の命で、保科正光がこの城を攻め、山室氏を追い出して、しばらくは、保科氏が領有していたのです。保科氏は関が原の後、また信州高遠の旧領に復帰します。つまり、山室氏は千葉の豪族で、保科氏に攻められて 敗れたが、その一族の一人が保科家に仕えて、高遠に移り、さらに会津へと移り住んだものと考えられますしかし山室氏は、保科氏に滅ぼされた敵方であるため、「外様」の扱いを受けていたのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「横浜在住の山室」さんから、こんなメールをいただきました。「曽祖父の代まで、千葉県の松戸市の旧水戸街道沿いに屋敷を構えており、江戸時代は、名主帯刀を許された家柄であったと聞いています。千葉県、特に松戸市の山室家の歴史情報をお持ちでしたら教えてください」と。千葉に住む姪からも、「以前務めていた病院に 山室という同姓の人がいました。千葉には山室姓が多いようです」と。

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