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のびたの日記

麒麟が来る 謎の空白 埋められた  最終回は私の期待と合う 

2021年02月08日 外部ブログ記事
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大河ドラマ『麒麟が来る』 最終回も楽しみに観た
コロナの影響で休んで部分省略 初めの頃の配役の入れ替え事件 大変だったと思う
明智光秀については 主君を討つ悪役 従って素性 生き方 考え方は未知が多い
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何故 織田信長を討つのか その経過 周辺に対する思い遣りも伝わってくる
信長 秀吉など 個性豊かな俳優 私にはなじめず ミスキャストにも思えていた
だが ドラマの進行につれ その顔に見えてくるから不思議なものだ
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私には 明智光秀が生き延びて どこかで違う顔を見せる これが最大の興味だった
最終回で 徳川家康に書簡を送ること これほど信頼関係があり 後ろ盾になったか
ドラマでも 生き延びる思わせぶりな場面である これが 私をほっとさせる
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明智光秀生存説が各種ある それと思しき証拠の跡や墓もある
私は家康との関係で のちの高僧 天海大僧正説が一番好きだ 信憑性もある?
墓所の日光にある 明智平 など 感慨を持って訪れたものだ
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以下は ウィキにある文章コピーです
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本能寺の変後の生存説[編集]
明智光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に討たれたとされているが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかある。ただしこれらの説は、光秀が天海になったと明示されていない。

京都宇治の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。
『和泉伝承誌』によると、山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後光秀は和泉に向かったと書かれている。
本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている[6]。
比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある[7]。
光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。
岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び、「荒深小五郎」と改名して関ヶ原の戦い頃まで生き延びたという伝承がある[8]。

天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠[編集]
同一人物説論者が根拠とするものには以下のようなものがある。

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。

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