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平成の虚無僧一路の日記

下総山室と高遠山室の意外な関係 

2011年08月17日 外部ブログ記事
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父の墓は、千葉県・房総半島の「長南町」にある。
長南町の町営墓地なので「安いから」と、墓を買い
求めたのだが、なんと「長南町」は、保科正光の
正室「長南御前」の「ご料(領)所」だった。

さらに、近くに「山室城」があり、戦国時代まで
この地を支配していた山室氏は、保科によって
攻め滅ぼされたことが判った。

それは、小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされ、
徳川家康が関東に入封した時。高遠の保科氏も
随行し、千葉下総の「山室城」攻めを命じられた。
そして、保科氏は、山室氏を滅ぼした後、この辺
一体の領主に任じられていたのだ。

10年後、関が原の後、保科氏は旧領の高遠に転封と
なる。徳川家康は、滅ぼした武田、北条、佐竹の
遺臣に対しては過酷な仕打ちをせず、懐柔した。

だから、山室氏も保科の家臣となり、高遠に移り
住んだと、私は考える。

保科の臣下となっても、元は「敵」だから、山室氏が
高遠で厚遇されるはずはない。城からさらに上流の
一帯を治水開墾したのではないだろうか。それで、
新田開墾した地区が「山室」と呼ばれた。

下総の山室には、円墳としては千葉県最大の「山室
姫塚古墳」がある。付近一帯は、前方後円墳、横穴
石室などたくさんの古墳があるのだ。「山室」とは、
これら古墳を意味していると思われる。

しかし、信州高遠の山室には、それをイメージする
ものは見られない。

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