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葵から菊へ
古関彰一著「平和国家日本の再検討」から「沖縄県民置き去りの憲法9条だった」
2020年09月04日
テーマ:テーマ無し
昨日のBlog記事の「〜シリーズ沖縄戦〜9月2日」に下記の記述があります。
アメリカ軍政府と沖縄諮詢会
降伏文書への署名は、東京湾の会場アメリカ軍の戦艦「ミズーリ号」で行われました。日本側の代表は重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長。連合国代表は後に日本占領を取り仕切るダグラス・マッカーサーでした。この署名で日本の降伏が正式に決定しました。降伏文書には、ポツダム宣言の内容を誠実に履行すると書かれています。その宣言では日本の領土についてこう記されています。「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」この日沖縄では、アメリカ軍政府の諮問機関として生まれた沖縄諮詢会が北部の収容所を視察。すでに沖縄では、日本とは違った独自の統治が動き出していたのです。
Facebookの投稿に、古関彰一著「平和国家日本の再検討」が紹介されていましたので、世田谷区立図書館から借りて読んでみました。ポツダム宣言の「吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」として、北緯28度線から南の奄美大島と沖縄は日本の領土ではありませんでしたが、復帰運動によって奄美大島は本土に復帰しました。しかし北緯27度線以南の沖縄はアメリカ軍政府の統治が継続しました。古関彰一著「平和国家日本の再検討」から、重要な「沖縄県民置き去りの憲法9条だった」と論じている部分を抜粋したいと思います。
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マッカーサーにとっての戦争放棄? ? 日本国憲法が徹底した平和主義を採用した背景には、昭和天皇の戦争責任問題と深い関わりがあったが、こうした政治戦略に加えて、当然のこととしてそこには軍事戦略もあったのである。? ? それは沖縄である。沖縄は、一九四五年四月、米軍上陸とほぼ同時に発せられた「米海軍軍政府布告第一号」(いわゆるニミッツ布告)によって「すべての政治および管轄権」が米国海軍の下に置かれ、「日本帝国政府の総ての行政権の行使」が停止され、二ミッツ提督の「職権行使上其の必要を生ぜざる限り居住民の風習並びに財産権を重し、現行法規の施行を持続す」ることとなった。この布告はいまだ日本政府と戦闘続行中であったために、占領地に対して布告する陸戦法規の性格を持っていたものと考えられる。しかし、本土との戦闘が終結し、日本政府が降伏文書に調印した同年九月以降も沖縄に日本政府の行政権は及ばなかった。? ? このような法的地位においた沖縄に対し、マッカーサーは、憲法施行ーヶ月後の一九四七年六月、外国人記者を前に次のように述べたといわれる。? ? ? ? 沖縄諸島は、われわれの天然の国境である。米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって重大な意義があり、明らかに日本の安全に対する保障となろう。? マッカーサーにとって沖縄の基地化と平和憲法、なかでも戦争放棄条項は、不可分のものであった。このような考えは、その後、米国政府が冷戦政策のなかで日本に再軍備を求めた際に、マッカーサーが本国政府の高官に語ったなかでいっそう明らかとなった。? 米陸軍省は、一九四八年二月「日本にたいする限定的軍備」計画の策定を開始する(JCS1380/48文書)。これは後述のごとく、講和条約発効後日本に三〇万前後の軍隊を創設する計画であった。そこで計画担当官のドレーパー陸軍次官、ジョージケナン国務省企画計画委員長らがマッカーサーからの意見聴取のため来日する。マッカーサーは講和条約後に日本に限定的軍備を与えて日本軍を組織しようとする陸軍省の計画に、対ロ占領の国際合意に反する、いままでのGHQの方針に反する、日本を軍事強国とすることはもはや不可能、経済的に困難、日本国民が支持しない、との五つの理由を挙げて強硬に反対し、日本本土は非武装でも沖縄を要塞化すれば防衛可能だとの軍事判断を下す。? マッカーサーには「外部侵略から日本の領土を防衛しようというならば、われわれは、陸・海軍よりまず空軍に依拠しなければならない」との軍事判断があり、沖縄はその位置に置いて米国の防衛線の要にあること、「強力にして有効な空軍作戦を準備するのに十分な面積があること」を沖縄要塞化の理由として挙げている。従って沖縄を要塞化すれば「日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全性を確保することができる」としたのである。?たしかにいずれの発言も戦争放棄条項発案の時点ではない。マッカーサーにとって、これは高度な政治的かつ軍事的な戦略であったのだから、日本国憲法が公布される段階までは公言することを避けなければならなかったにちがいない。だが、日本国憲法の平和主義、なかでも憲法九条の戦争放棄と軍備不保持は、沖繩の基地化なしにはありえなかったことは認めざるを得ないだろう。 このように九条発案者の意図を考えてみると、たとえその意図が当時伝えられなかったとしても、沖縄の代表者が憲法審議の第九十帝国議会に議席を確保していたならば、九条の審議はいくらかなりともすでに基地化されていた沖繩の現実を路まえた議論が可能であったに違いない。しかしそうはならなかった。 憲法草案審議のための衆議院議員は、一九四五年ーニ月に成立した改正衆議院議員選挙法によって選出された議員である。この改正法は、それ以前の成年男子のみによる選挙法を改正して、婦人にも選挙権を与えたものとしてよく知られている。いわば「戦後民主主義」を象徴する選挙法の改正であった。しかし、この選挙法は婦人に選挙権を付与する一方において、その付則で在日の旧植民地出身者(台湾、朝鮮人)と北方領土住民、そして沖縄県民の選挙権を停止したのである。 法案審議の段階で議席のあった沖繩選出の「最後」の議員五名のうちの一人、漢那憲和はその不当性をこう訴えた。? ? ? 帝国議会に於ける県民の代表を失うことは、その福利擁護の上からも、又帝国臣民としての誇りと感情の上からも、洵に言語に絶する痛恨事であります。此の度の戦争に於いて六十万の県民は出でて軍隊に召された者も、止まって郷土に耕す者も、各々其の職域に応じて奉公の誠を尽くしました。沖縄作戦に於いては、男子は殆ど全部が陣地の構築は勿論のこと、或いは義勇隊を編制し或いは徴集せられて戦列に加わり、郷土防衛に全く軍隊同様奮闘し、師範学校及び県立一中の生徒の如き全部玉砕しております。又婦女子も衛生隊、給食隊として挺身し、国民学校の児童たちまでも手榴弾を持って敵陣に斬り込んでおるのであります。凡そ此の度の戦争に於いて沖縄県の払いました犠牲は、其の質に於いて恐らく全国第一ではありますまいか。此の県民の忠誠に対して、政府は県民の代表が帝国議会に於いて失われんとするに当たりまして、凡ゆる手段を尽し、之を防ぎ止めねばならぬと存じます。? これに対し堀切善次郎内務大臣は「連合軍司令部の方の同意を得られません」と答えただけだった。行政権が及ばないのだから、選挙の実施を本土の行政権の行使としては行えなかったとしても、沖縄県民は日本国民であったのである。? かくして、沖縄要塞化と密接不可分な関係にあった憲法の戦争放棄条項は、当事者の沖縄の代表者のいないところで審議されることになった。もちろん、先に引用したマッカーサーの言辞など当時は誰も知りようがなかったのであるから、そうした視点で審議され得なかったとしても、日本で唯一の地上戦を経験した沖縄選出の国会議員が加わっていたならば、戦争の実相とその後の米軍による基地化の現実とが審議の対象となり、憲法九条は単なる観念的な理想ではなく、現実の中で解釈され得たのではなかったのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(了)
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