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コロナ禍と天皇幻想・出てこない天皇・出さない政府・菅孝行(論座)200702 

2020年07月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



友人の川口重雄さんからのメールを転載します。文中に『ちなみに、天皇徳仁は1975年から78年、「皇孫」として学習院高等科に在籍した。当時の日本史の担当教諭は越田稜氏である。越田氏は日本の戦争責任を問うた「アジア民衆法廷準備会」の事務局長を務めたこともある。近代日本史専攻で早大で修士になった。徳仁は彼から歴史修正主義とは無縁の歴史認識を学んでいる。徳仁は、祖父裕仁の時代の日本の歴史を知っている。』と越田稜氏についての記述があります。
越田稜氏は「アジア民衆法廷準備会」事務局長当時も学習院高校の校長を歴任にされていました。1989年7月22日に新宿区戸山の国立感染研究所建築現場から「人骨」が発見され、「人骨の会」(旧軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会)が結成され、越田氏も参加されました。「経過報告 軍医学校跡地で発見された人骨問題の30年」1991年8月24日〜31日まで市民調査団18名(団長越田稜氏)が、中国北京市「中国人民抗日戦争博物館」と哈爾浜市平房区の「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」を訪問しました。哈爾浜から北京行きの飛行機トラブルがあり、9月1日に帰国することなりました。越田氏は学習院高校の始業式に校長として列席することが不可となり、学校から始末書を書かされたというエピソードがありました。(訪中写真は一番下に)
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各位     7月6日〔BCC、本日第2信〕友人から届いた情報です。久しぶりに菅孝行氏の論考を読みました。コロナウイルス禍に「お言葉」を発しない徳仁天皇・雅子夫妻と安倍官邸。秋篠宮夫妻もすっかり霞んでいますが。それでは。川口重雄拝-----Original Message-----コロナ禍と天皇幻想・出てこない天皇・出さない政府・菅孝行(論座)200702https://webronza.asahi.com/national/articles/2020070100004.html 新型コロナウイルス性肺炎の蔓延は、地震や洪水などの自然災害と共軛な性格がある。被害の到来とともに、社会の一体性の必要が煽り立てられ、挙国一致の空気が醸成される。そして、普通なら、日本では天皇の出番になる。各国の指導者は戦争のメタファを用いた。「コロナは戦争ではない」といったのはメルケルだけだった。挙国一致と惨事便乗 「国を挙げて」という空気の下で、被害は必ず様々な意味での弱者――独居老人、低所得者向け施設の老人、主に非正規雇用の低所得者とその家族、失業者、障害者、外国人労働者、老若男女を問わず集団感染の危険にさらさされる病院、老人ホームなど諸施設の入所者、元受刑者、受刑者などなど――に集中する。同時並行で、「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)で暴利を貪る階層が出現する。 3.11直後が想起される。この時も、国民的一体感が演出される一方で、惨事に便乗する階層と不利益の底に沈む階層への分岐が甚だしかった。不利益を被る層の内部は避難か残留か、地域指定の内か外かなどを巡って分断された。分断されながらそれぞれに辛酸をなめた。その辛酸に対する癒しが渇望された。この期待に政府は応えられなかった。渇望に応える役割が天皇明仁に振りあてられ、天皇皇后の避難所慰問で「感動」が組織された。夫妻が被災者目線で跪く独自の慰問スタイルが話題になった。「平成流」(原武史『平成の終焉』)の極致だった。天皇が出てこない不可思議 コロナ禍の下で何故これと類似のことが行われないのか。新型コロナウイルス感染の危険は、3.11の被曝の危険よりも大きい。だから天皇は出てこないのだと言ってしまえばそれでお終いだが果たしてそうか。また、天皇の「ありがた味」が縮減して、政府に使う値打ちがないからさ、とう訳知り顔にも与せない。 自然の暴威がもたらした「国難」のもとでの「国民的」一体感の醸成や不安の鎮静に少しでも有効で、激甚な副作用がなければ、「有難味」が多少縮減しても政府は天皇を使うだろう。メッセージだけならウイルスから遠く離れた皇居から発信できる。しかし、天皇夫妻はコロナ禍に特化したメッセージを発信しない。即位一周年の「おことば」でコロナ禍にもっと踏み込んで想いを語ることもできたはずだがそれもしなかった。権力には天皇を表に出すことを躊躇わせる重大な理由が存在するに違いない。 東日本大震災当時、政権は民主党の弱体政権だった。翌年から一強の安倍に替わった。3.11当時も政権中枢に改憲論者はいたが改憲の優先順位は低かった。現政権とそれを支える神政連・日本会議派は改憲を狙っており、元首制であれ象徴制であれ、あくまでも政権の意向に即して活用できる「神聖天皇制」を望んでいる。天皇・皇后の行幸啓や「おことば」を、政権の望むかたちで間然するところなく演出できるかどうかが、権力にとっての最大の関心である。 3.11の以前も以後も天皇は災害時に見舞いの巡幸も繰り返した。これは政府の要望に基づくものだった。しかし、第二次安倍内閣の8年間、政権と天皇家の確執があったことを忘れてはならない。折に触れた天皇の「おことば」は、改憲、戦争法制、辺野古埋め立て強行などに関する相剋と国論二分の要因となった。コロナ禍対応の政策批判に「ガス抜き」はない しかしこれらの争点の場合、政府への反感がどれほど強く、その反感の大半が天皇への親近感に結びついていても、政府はそれを対権力不満派の「ガス抜き」という着地点に落とし込むことができたから、政権に打撃を与えなかった。天皇に対する親近感を抱く反政府派は、政権の邪悪さを天皇が判ってくれていることに満足し、矛を収めた。 例えば辺野古埋め立て強行は、基地所在地の住民以外にとっては、直ちには日々の生存を脅かさない。戦争法制が法制化されても、物言うことを許されずに戦地に派遣される自衛隊員以外、この悪法は大多数の「国民」の生存をすぐには脅かさなかった。だから、悪政は主権者の記憶がから早々に遠のいた。こういう「ガス抜き」もまた象徴天皇制が権力に付与した統治手段だったのである。国政の権能のない天皇が、本気で異議を申し立てた場合には、結果は必ずいい面の皮なのだ。 ではコロナ禍の今、なぜ天皇夫妻は出てこないのか。行幸啓はともかく、「おことば」さえ出さないのは、政府か宮内庁が「出させない」からだと私は推測する。これまでの慣行では、「おことば」の下書きを官僚がすることはあっても、天皇の発言の細部にまで規制を加えることは遠慮して来た筈である。だから、様々なハプニングがおき、それリークされたのである。ということは、天皇にひとこと決め台詞を言われても阻止できない、ということである。これは政府にはスリリングだ。「平成」期に政府の学んだ教訓 生前退位の意向が天皇自身が表明した「8.8おことば」を安倍に無断で準備した宮内庁の「戦犯」を更迭した安倍は、後任に側近を据えた。この新しい宮内庁幹部が、政府の意を汲んでガードを固め、天皇皇后の言動を統制しているとも考えられる。だとすれば、天皇の発言を宮内庁は管理しろと、かつて八木秀次がつけた注文(「正論」2014年5月号)通りになっていることになる。 あるいは、天皇夫妻の意向を、宮内庁を介して政府に伝えても、政府が止めているのかもしれない。「おことば」の内容を細部まで政府が決め、天皇に片言隻句変えさせない、ということができるのであれば、国民の統合の道具に使えるかもしれない。だが、天皇が文言を変える自由を天皇に与えたら政権に不利な発言が出てくる可能性を回避できない。 つまり、コロナ禍がテーマでは、政府は、天皇への親近感をガス抜きに使う構造的な出来レースのショーは危険でやれないのだ。理由は簡単である。コロナ禍は、特定秘密保護法や、戦争法制や、共謀罪や、基地問題と違って、誰にとっても、その日その日の命と経済に深く結びついている。従って、人々は一度抱いた想いを忘れない。「ガス抜き」の操作は、単に、天皇に国政の権能がないだけでなく、主権者の忘却によって支えられてきたのだ。だがコロナに関しては主権者は忘れないのである。トリアージも「中抜き」もできない! 例えば、もし天皇が「国民の命がわけへだてなく尊重されるよう希望します」と言ったとする。これまで医療現場では、感染可能性の高い人へのPCR検査要請があっても、「感染のピークを遅らせる」ために「クラスターへの対応を最優先させる」という専門家会議の提案に基づく政府の方針を貫徹するために、現実には随所で、治療が必要な感染者の検査を拒むという、隠微なトリアージが行われていたに違いない。人工呼吸器やECMOが不足して、トリアージを迫られた局面も全くなかったわけではあるまい。だが、天皇に「国民の命はひとしく大切」といわれると、天皇がイカンと言っているぞと攻め立てられ、トリアージはタブーになる。ネオリベ医療政策で施設も人も削られて来た医療現場の最前線はパニックに陥る。こうした事態を政府が回避するには、天皇に黙らせるに如くはない。 経済的補填に関しても、「経済対策は国民の間に不平等のないよう希望します」とかいわれたらタイヘンである。これはそのまま持続化給付金の電通資本による「中抜き」、補正予算予備費のうちの五兆円のブラックボックスへの批判の論拠になる。コロナ禍の下では天皇の「おことば」は「きれいごと」で終わらなくなるのだ。望月衣塑子記者の狙い 東京新聞の望月衣塑子記者が行った、天皇待望発言(島田雅彦との対談「皇后陛下が立ち上がる時」)は、こうしたことを念頭に置いたものだろう。天皇のメッセージを担いで政府の生命軽視や格差拡大政策に圧力をかけようという意図は明白である。「平成」時代の山本太郎がやった直訴状がそうだったし、内田樹の「天皇主義者宣言」もその範疇に属する。 もし本当に天皇の「おことば」で政府の悪政に歯止めをかけられるのなら、「君主を当てにする」ことの是非という重大問題を措けば、戦術として理解できないことではない。 だが、縷々述べたような理由から天皇夫妻は出てこない。政府がリスキーな発言の場を与える訳がないのだ。万が一出てきた場合にも、官僚か政治家の作文の棒読みを要求され、物議をかもすようなメッセージを発することはできない。明仁時代の「おことば」が、政府批判とも読めるところまで踏み込めたのは、政府がガス抜き効果を先読みしていたからだ。 平成時代、唯一想定外だったのは宮内庁による8.8の「おことば」のセッティングだけである。だから長官と次長のクビを飛ばした。「令和」の天皇制では、政府は金輪際こういう「失態」を回避したい。政権の意向は、当面改憲が行われるか否かを問わず、天皇の機能を、政権の意向に絶対反しないものに鋳固めしつつ、形式的権威の強化を図ることであるのは冒頭に述べた通りである。だとしたら、明仁の路線を継承している徳仁に緘口令を敷かなければ、気が気でないはずだ。政府は天皇を表に出さない ちなみに、天皇徳仁は1975年から78年、「皇孫」として学習院高等科に在籍した。当時の日本史の担当教諭は越田稜氏である。越田氏は日本の戦争責任を問うた「アジア民衆法廷準備会」の事務局長を務めたこともある。近代日本史専攻で早大で修士になった。徳仁は彼から歴史修正主義とは無縁の歴史認識を学んでいる。徳仁は、祖父裕仁の時代の日本の歴史を知っている。 皇后雅子は外交官時代、米英など連合国側の歴史認識を熟知する立場にあった。ふたりとももしも歴史を自由に語らせれば「国際基準」でものをいうだろう。「国際基準」とは――日本国家には侵略戦争の責任がある、南京大虐殺は存在した、731部隊の人体実験は存在した、従軍慰安婦に国家が責任を負う、など――政府や自民党の歴史認識とは衝突することを意味する。もしここに本気で踏み込まれたら、よしんば「平成」時代には「ガス抜き可能」だった抽象度の高い案件でも政府はパニックに陥る。政府は天皇夫妻に歴史認識を喋ってほしくない。ましてコロナ禍に言及されればガス抜きは不可能だ。 従って政府は、文面を片言隻句まで決めて変更を許さないという露骨な「不敬」を避けるには、リスキーな局面に絶対天皇を出さないことしか選択肢は存在しないのだ。つまり望月衣塑子記者の願望は達成されない。ロボットの意味の逆転 政府の意図は天皇を政府の完全な「ロボット」にすることである。「天皇ロボット説」といえば宮沢俊義の憲法制定時の象徴天皇制解釈が想起される。だが状況はこの時と逆転した。73年前、天皇制が存置された憲法で、国政の権能の剥奪と、国事行為又はその延長としての儀礼的発言の両立をよしとしたのは、国民代表が作る政府の方が反戦・平和・民主・立憲の立場に立つに決まっており、天皇を政府のロボットにしておきさえすれば、ほぼ共和制的政治が保証できる、ということが自明視されていたからだ。 象徴天皇の喚起する幻想は戦後長らく「人間天皇」=親米を前提とする非戦・非軍国主義・民主主義の枠内に収まると想定されて来た。まして、民主的手続きで選ばれた政府が天皇より「悪さ」をするなどという事態は想定外だった。ところが、明仁に代替わりしたら、天皇が生真面目に憲法前文の精神を体現することを象徴職の任務と自覚し、自民党の政府の方が、「張子の虎」だったはずの改憲という党是を本気で持ち出して生きた。しかも、アメリカへの「自発的隷従」を進めるために、である。 白井聡の『国体論』の見立てによると、アメリカが日本に求めた「自発的隷従」に関して、政府はまずます忠実だが、天皇明仁の方が、こんな筈ではなかったと気づいてしまった、だから生前退位を契機に国民に戦後過程の再審を求めた、ということになる。少なくとも2017年5月21日付の毎日新聞がスクープしたように、生前退位をあたかも明仁ひとりのわがままの始末のように、一代限りの特例法で政府が処理し、国民的議論の道を封じたことに明仁が不満を表明したことは事実である。 「個人」としての天皇の見識よりも、現在の政府の邪悪化が宮沢俊義の想定を遙かに超えてしまったのだ。その結果、政府批判派が、天皇が政府のロボットから逸脱することに期待をかける、というねじれた事態が生まれた。天皇依存からの自由を 「昭和」の象徴天皇制における国民の幻想の統治は、政府と裕仁の間の矛盾をみせずに国民の統合を強化することをめざした。「平成」の象徴天皇制の機能は、特に後半、明仁と政府の相剋を孕む、ガス抜き装置へと移行した。だが、いずれの天皇制も、アメリカと、裕仁や日本政府の密約で成立した「国体護持」された「戦後民主主義」国家という、認めたくない真実から大多数の人が目を背けてきた「否認の共同体」(磯前順一『昭和・平成精神史』)の形にほかならない。 支持派にも元首化派にも打倒派にも、「令和」は象徴天皇制の「始末」の時代である。政府は露骨に政府のロボットとしての象徴もしくは元首を望んでいる。「平成」の「ガス抜き」時代の教訓に学んで、軍事・外交・改憲に関しても徳仁夫妻のリスキーな言動を封印しようとする。主権者の命と経済に密着したコロナ禍に関しては、危険度が遙かに高いと知っている。だから何度も言うように天皇の「おことば」が政府批判派に有利に作用する局面を政府は決して作らせない。政府批判に天皇の発言を使える機会を到来させない。 君主制を批判する側にとって重要なのは、国民代表が邪悪な政府を作らないことであり、邪悪な政府を作らせないよう、国民代表を選ぶ主権者が変わることだ。主権者の名に値する主権者は君主を必要としない。世界の共和国を見渡せば、君主を必要としない主権者が良き主権者であるとは限らないことは明らかだが、先ずこの国では良き主権者の必要条件の一つである君主依存からの脱出からはじめるしかない。陳腐な原則論で恐縮だが、君主などあてにしない人々の集合を作ることから始めるしかないのだ。
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左から二番目が越田稜氏。右から都留文科大学教授笠原十九司氏、慶應義塾大学教授松村高夫氏。松村氏は帰国後、家永教科書裁判の法廷で731部隊について証言しました。

左が731部隊陳列館韓暁館長。731部隊犠牲者遺族から調査を求める人権救済の申立書を預かり、9月9日に南典男弁護士が代理人として申立書を日弁連人権擁護委員会に提出しました。


畑の向こうに731部隊ボイラー室の煙突が見える。

市民調査団は、1991年8月25日中国人民抗日戦争博物館で開催していた「731部隊展」を見学し、同館から展示パネル等の貸し出しをするから日本国内で開催しないかと申し出がありました。実行委員会が結成され、1993年7月6日新宿区内の「731部隊展」を皮切りに全国で開催されました。
当時は日本共産党と中国共産党は文化大革命によって交流は断絶していましたが、市民調査団に参加するという事由で共産党新宿区議であった管理人も参加しました。

当時のエピソードです。
命かけて中国侵略戦争に反対  日本共産党員「伊田助男」の英雄的行動
(了)

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