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平成の虚無僧一路の日記
京都所司代 板倉重宗が 明暗寺を建ててくれたのだ
2020年06月13日
テーマ:テーマ無し
京都明暗寺の創建については、寺伝では「鎌倉時代に法燈国師覚心が唐より普化宗尺八を伝え、その弟子の虚竹禅師が・・・云々」などと
明暗寺の案内に書かれているが、「寺の縁起」ほどでたらめな史料は無い。全部嘘。お寺の和尚さんは「嘘も方便」と云って、大嘘つき。
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京都明暗寺は京都所司代板倉重宗が、浪人対策として、淵月了源という虚無僧のために、妙法院の一画を借り上げ、建ててくれたという記録があるのでござる。
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1620年から1654年まで30年以上の長きにわたって京都所司代を務めた板倉勝重は、長男の重宗と弟の重昌に、ある訴訟の是非について問うた時に、重昌はその場で返答したが、兄の重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは「重昌の方が器量が上だ」と評価したが、勝重は「重宗は重昌と同様の結論を早くに出していた。ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上である」と評したという(名将言行録)。
この板倉氏は、三河(愛知県)西尾の藩主。
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弟の「板倉重昌」は尺八を吹いた殿様として知られる。「江戸の尾張徳川家の屋敷を訪ねてきては、当時流行っていた殿様踊りに合わせて尺八を吹いた」という。その「重昌」は島原の乱の総指揮官として派遣され、落命する。
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兄の重宗は、父の跡を継いで京都所司代となり、訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、当事者の顔を見ないようにして 人相などで いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという。(徳川実紀)
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私心無く 公平に決断することを常に心がけ、広く高い評価を受けていた重宗である。その重宗が、元和8年(1622)【京都市中浪人取締令】を出して、浪人の撲滅運動を行っている。狙いはキリシタン対策である。
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「浪人を匿い置くべからざる事。若しこの旨に背く者あらば、その宿主は申すに及ばず、その一町中 曲事(くせごと)申し付くるにより、厳重に沙汰すべし」となかなか厳しいお触れであった。
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そこで、白川の「宗宅」に寄宿していた浪人「淵月了源」も所司代に呼び出される。
「了源」は 虚無僧としての生き様を縷々弁明した結果、所司代(重宗)から、次のように裁きを受ける。
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「浪人の中には忠臣義士も之れ有るべし。不憫の至りなり。普化宗虚竹の法義を慕い、竹によって托鉢修行、渡世いたし、禅学に心を寄せば、自然と善心相成り、心得違いも有るまじく、宗門の者といえども、武浪の身、内々軍役の働き申し聞き、有難く渡世致すならば、勇士お抱え同様にて 軍用の一つなり(以下略)」と。
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そして、板倉重宗の計らいで、妙法院門跡の一角 40坪を借り受け、
草庵を建て、そこに居住することになる。これが「京都明暗寺」の起こりで、当初は「妙法院」の一角だから「妙安寺」だった。
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まさに所司代「板倉重宗」は 名判官、名奉行である。
「板倉重宗」は、弟の「重昌」が尺八を吹いてたことから、尺八には理解を示していたのかもしれない。さらに調べると、重宗は、小堀遠州や沢庵ら文化人を招いて文化サロンを開いており、寛政の文化を築いた一人だった。
小堀遠州が、寛永の三筆「松花堂昭乗」に描かせた「普化」の掛け軸を 板倉重宗に贈っている。その絵には 沢庵が賛を書いているのである。(愛知県西尾市長円寺蔵) 。
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板倉重宗は 愛知県の西尾の藩主で、所司代退任後は、明暦2年(1656年)下総関宿5万石の藩主となった。
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虚無僧が、後に「家康公のお墨付きを得た」というのは、この京都所司代板倉重宗の公認を得たことを示していると私は考える。
「有事の際(合戦が起きたら)、お上(徳川幕府)のために、軍用に仕する」というのが、「掟書」に含まれているからである。
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京都所司代 板倉重宗 弟の重昌 島原の乱の討手総大将として落命
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