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平成の虚無僧一路の日記

「明暗」ってどういう意味? 

2020年06月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「教えて」のサイトで「虚無僧」を検索したら【質問】虚無僧の胸の前に下げている袋に書かれている文字    「明暗」について、なぜ「明暗」なのか【回答】明暗寺(京都)系の僧侶を意味しています他にも同様のものがありました。よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた箱は、仏教用語のように見えるが、特に意味はなく、「明暗寺の虚無僧」と、所属している寺を示すものである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ウ〜ム。半分は正しいが、「特に意味がなく」というのは、ひっかかります。「明暗」は悟りを示す仏教用語です。たしかに、歴史的には、江戸時代の浮世絵には、「明暗」と書いた頭陀袋や「偈箱(げばこ)」はありません。明治4年、「普化宗」は廃止され、虚無僧姿で尺八を吹いて門付することも禁止されました。京都「明暗寺」の最後の看主は、寺の本尊である「開祖・虚竹禅師の像」や什物を、知り合いの東福寺の塔頭「善慧院(ぜんねいん)」に預けて出奔します。明治23年、名古屋西園流の樋口対山他、尺八愛好家によって、「善慧院」を寄会所として「明暗教会」が発足しました。当時、キリスト教も公認となったので、“それなら虚無僧も”との思いで「教会」としました。時に、東福寺の本堂が全焼するという事件があり、その再建費用を集める団体として、東福寺の了解をとりつけたようです。

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それで、昭和初期、“最後の虚無僧”と言われた「谷狂竹」は偈箱に 「京都東福寺内、明暗教会」と書いてました。それでも法律上は、虚無僧は禁止ですから、「谷狂竹」は 二度も警察に捕まって、留置所に入れられ、略式裁判で罰金を払わされています。虚無僧受難の時代でした。虚無僧が晴れて政府公認となるのは、昭和25年のことです。新憲法で「信教の自由」が保証されたために「普化正宗・明暗教会」として宗教法人登記がされます。所在地は「善慧院内」です。「善慧院」は臨済宗の寺であり、その住職は臨済宗の僧呂であって虚無僧ではありません。「善慧院」に虚無僧が常駐しているわけでなく、年何回か、お寺をお借りして、尺八愛好家が尺八の奉納吹奏をさせていただくという関係です。虚無僧愛好家は、年5千円以上の志納金を納めれば「明暗教会会員証」をいただけます。ただし、「これは托鉢を認めるものではありません」との一札が書かれています。「門付」は「もの乞い」と同様とみなされると、現行法でも「軽犯罪違反」になるのですが、「警察は黙認」という慣行になっています。そして、偈箱の「明暗」ですが、これは、戦前、戦後の映画から始まったものです。「虚無僧系図」で「何もないのはさびしいので、何か良い案はないか」という監督の要望に、尺八指導と演奏を担当していた「菊水湖風(柴田聖山)」と「堀井小二朗」が、「『明暗』がいい」と提案して採用されたとか。そんなわけで、「明暗寺」という所属を示すものとして「明暗」になったのは ある意味正しい。高岡の国泰寺派や、紀州由良の興国寺派では「明暗」は使いません。さて、では「なぜ『明暗』なのか」です。「仏教的な深い意味は無い」といわれるのは残念です。深い意味があります。これは「普化禅師」の偈(げ)「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」に由来しています。その意味は・「明にも暗にもこだわらない心」。・「明にあっては明、暗にあっては暗の流れに任せる自在な生方」。・「暗にあっても明なる生き方」・「暗を明に転ずる生き方」などなど、仏教的に深い意味があるのです。
ついでながら、京都の明暗寺は、江戸時代の初期「妙安寺」と書かれていました。当て字は江戸時代よくあることですが、「妙法院」の一画を借りて建てられたので「妙安寺」と付けたと考えています。つまり、江戸時代初期の虚無僧たちは「普化禅師の偈『明頭来明頭打・・・』を知らなかった。虚無僧の宗祖を普化禅師とするのは江戸時代の後半からで、普化の「明頭来・・・」とゴロが同じなので「明暗」と変えたと私は考えます。

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