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たかが一人、されど一人

父の思い出 

2020年05月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今日は亡き父の誕生日。家族の命日は定かではないが、家族の誕生日だけは不思議に覚えている。我が家は7人家族で1月から6月まで誰かの誕生日があり、1人だけ11月生まれなので覚えやすかったのだろう。中でも父の誕生日は明日の27日が海軍記念日、即ち父が誕生した翌日明治38年5月27日に日本海大海戦が行われ、東郷元帥指揮下の日本軍がロシアのバルティック艦隊を撃破した劇的な日なので余計印象深い。司馬遼太郎氏の小説愛読者には懐かしい「本日天気晴朗なれど波高し、各員奮励努力せよ。」漢字混じりの小説など読んでもいなかった子供の頃から、父の誕生日ごとにこの台詞を聞かされたような気がする。父は軍人でもなく、右翼を気取っていたわけでもないが、よく冗談交じりに「私はウルトラコンサバティブ=超保守主義者だ」と言っていた。子供だから当然影響を受けたはずだが、気がつくと現在は何主義と言うべきか分からぬが、保守主義からは距離を置くようになっていると思う。だからではないが、何れにしても「不肖の子」であるのは間違いない。子供の頃そんなに怒られた記憶もないが、兎に角おっかないオヤジだった。父がいない昼間に悪さをして母から「お父さんに言いつけるから」と言われるのが一番イヤなことだったような気がする。父と接触する時間は現代の平均的サラリーマン家庭より短かったかも知れない。平日は起床して学校に行くまでは同じ屋根の下だが、夕食は母と子供だけの日が多かった。休日に父は外出が殆ど無くて終日在宅が多かったので、窮屈な思いを避けるべくこちらが極力出掛けることにしていたと思う。しかし父は今にして思えば優しい人柄で、子供思いだった。当時厳しく感じていたのは、父が自分に対して厳しかったせいかも知れぬ。父自身は厳しいとは思っていなかったろうが、兎に角几帳面で規則正しいこと。起床してから朝食までにすることが決まっていた。子どもたちにも一緒にするように命じたのは朝の掃除、5人がそれぞれ持ち場を決められていたような気がする。掃除に取り掛かる前に父は洗面などを済ますのだが、これが一風変わっていた。毎朝必ず風呂場で冷水をかぶり、全身を丹念に摩擦することを相当な年令になるまで続けていた。この後庭に出てラジオ体操をするのだが、その前に必ず長々と東に向かい合掌して何やら祈っていた。一種の健康法だと思うが、他の家族に真似しろとは言わなかった。顔立ちは田舎の百姓オヤジの風情ではあったがユーモア精神にも富んでいたし、酒が好きで強かったが、何度か飲みすぎて体調を壊し、母から怒られていたことなんかも良い思い出だ。生涯よく口にしたのが西郷隆盛の遺訓とされる「児孫のために美田を買わず」だったが、結局子供5人に家を残し、入る墓まで用意してくれた。感謝あるのみだ。

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