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平成の虚無僧一路の日記

「甲斐武田氏」の出身地は常陸だった 

2020年04月26日 外部ブログ記事
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 甲斐の武田氏については、「新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称した」とか、あるいは「義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った」などと云われている。
ところが「尊卑文脈」や「武田系図」に、義光の子「刑部三郎武田冠者義清」が「甲斐国市河荘に配流された」とある。これを信ずれば、「義清は甲斐に移り住む前から武田姓であり、しかも「配流」というのだから、罪を得て流されたのである。
「甲斐武田氏の祖は、流罪人であった」とは由々しきこと。武田家系図では、殊更にこの事実を隠蔽してきた。
実は新羅三郎義光の本拠地は常陸。その流れが佐竹である。
現在、茨城県日立那珂市に武田という地名があり、武田氏館跡というのがある。
こここそが、武田の出身地なのだ。

茨城県日立那珂市にある「武田氏館跡」
新羅三郎義光の嫡男「義業」は常陸馬坂に住んで佐竹氏の祖となる。次男の「義清」は、常陸国那珂郡武田郷を与えられて武田冠者と称していた。
しかし、1130年、所領争いで 常陸・吉田の吉田清幹らから朝廷に訴えられ、子の清光と共に、山梨県西八代郡市川三郷町に流罪になったのである。
その後、子の清光が甲斐で勢力を拡大し、逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の頭領となった。
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