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平成の虚無僧一路の日記

南部藩家老 楢山佐渡 

2011年07月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



『壬生義士伝』で吉村貫一郎の上司「大野次郎右衛門」の
モデルは南部藩家老「楢山佐渡」のようだ。

「楢山佐渡」は、藩主の縁戚にあたり、代々家老職。22歳で
家老となり、後、主席家老となった。

以下は「北条四郎のホームページ〜幕末南部藩を率いた
悲劇の武将 楢山佐渡」より。

慶応4年(1868)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、南部藩に、
朝廷より召集令状が来、楢山佐渡と他2名が京都に上った。
そこで楢山佐渡が見たものは・・・・・。
 
京都市中は、西洋式の軍服を着込んだ西国の藩兵が
肩で風切って歩いている。花街は、そんな連中であふれ、
退廃そのものであった。

楢山佐渡は西郷隆盛と会談した。西郷とその部下達は
車座になって「すきやき」を食っていた。西郷の、ラフな
姿に、紋付袴に裃(かみしも)の楢山は面食らう。楢山の
血は逆流した。こいつらは侍ではない。

そして、帰藩して「楢山」は 各々方に説いた。

「薩長は勤皇どころか、姑息なやり口で天下を奪い取った
反逆者にほかならない。会津・庄内両藩を討伐せよという
勅はそもそも偽勅である!天子様が幼いことにつけこみ、
薩長は自らの私の恨みを晴らさんがため、勅命を捏造して
おるのだ。我らは武士である。もののふである以上、
卑怯な輩を討ち、君側を清めねばならぬ。無実の者を陥れ、
朝廷をないがしろにする者共にひれ伏すとなれば、
もはや武士ではない。拙者は義の為に戦い、死ぬ道を選ぶ。」
 
藩を「奥羽越列藩同盟」側に導き、秋田大館に攻め入ったが、
戦後は敗戦の責を負い、明治2年6月23日、盛岡・報恩寺で
刎首された。享年39。

辞世は「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に
      うつらぬものは 武士(もののふ)の道」


まさに、『壬生義士伝』の「大野次郎右衛門」だ。

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