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のびたの日記

切腹の 主に殉死の 愛貫く   悲恋は種子島・横山の盆踊りで伝えられる 

2019年09月06日 外部ブログ記事
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島の夕暮れ 白い衣装をまとい 独特の傘を被り 哀調を帯びた曲に合わせ踊る
他に見られる華やかさは無い 385年前に亡くなった 阿久根千代女の霊を祀った踊りなのだ
ここは種子島の横山神社 旧暦7月7日に供養の盆踊り 鹿児島県の無形文化財にも指定されている
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阿久根千代女とは? 歴史を紐解いてみよう
教養も兼ね備えた彼女は 薩摩藩の家老 比志島国隆(ひしじまくにたか)と恋仲になり 妾になったと言う
かの国隆はあることで島津公の怒りを買い 種子島へ流罪となった
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これを知った千代女は 阿久根から丸木舟に乗って種子島まで会いに行った
国隆との再会は束の間 更に切腹令が発せられてしまう
千代女は自分も一緒に死ぬと懇願し 国隆は千代女を殺してから 切腹して果てた
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それ以来 この横山の地区では 以前からあった歌に加えて 千代女への霊を祀る歌になった
そして 毎年 この盆踊りを踊って 供養を続けてきた
踊りの様子は YouTubeにもある 女子禁制で男性だけの哀愁を帯びたものである 約20分
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https://youtu.be/abSyk6Cq4C8 横山の盆踊り
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阿久根千代女の墓
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さて この薩摩藩家老の比志島国隆 どんな人物なのか
意外な場所で名前が登場する それは 現在の宮崎県と鹿児島県の県境に近い 飫肥の山奥である
場所は 牛の峠 この時代には 飫肥の伊東佑慶が通った主要交通路であり 殿様道と呼ばれていた
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付近は山林資源が豊富で 折しも 財政的には窮乏していた飫肥藩は この材木を売り藩財政にした
ところが 薩摩藩との県境は確定しておらず これは我が地であると 時の 比志島国隆は武力で迫った
飫肥藩も頑として譲らず これから52年ばかり 境界紛争が続いたものである
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この時の国隆の行動が薩摩藩主の怒りを買い 遂には種子島流罪 切腹までに至ってしまった
この牛の峠の境界紛争は 江戸幕府まで調停以来の訴えが起こされ 最終的に 飫肥領と採決される
方や70万石の薩摩藩 方や数万石の飫肥藩が勝訴したのである
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この時に 境界が確定したので その塚石が牛の峠に建てられたのである
この時代には 薩摩藩は九州の有力藩 宮崎も一時は領下に置くほどの勢力となって居た
なお 国隆の父は 宮崎県の都城市・高岡城主に任命された人物でもある
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高岡城

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この話は 昨日 FMぎんが てんがらもんラジオのゲスト 西伊敷歴史研究会の池田会長が話された
ラジオで聞くので 登場するかっての武将や土地 その他 漢字も含め想像の世界からネットで調べる
故にもし 違っていたらご容赦願いたいものだ 記事も写真もネットからの借用である
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