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平成の虚無僧一路の日記

山本八重の兄「覚馬」 

2011年06月23日 外部ブログ記事
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福沢諭吉が 長崎で 蘭学と砲術を学んだ師の名は、
「山本物次郎」。「山本物次郎」も砲術家で、盲目
だった。

同時期、会津藩の「山本覚馬」も、砲術家で、盲目
だった。不思議な一致だが、二人の間に結びつきは
無い。ザンネン。むしろ「坂本龍馬」と 共通性が
あるようだ。「坂本龍馬」は「明智光秀の子孫」。
「山本覚馬」は「山本勘介の子孫」と言っている。

「山本八重子」は、この兄「覚馬」を頼って 京都に
行く。「山本覚馬」こそ、もっと知られていい人物だ。

山本覚馬は、会津藩の砲術家だった。砲術研究から
蘭学を学び、ついで英学も学び、西洋の文物、法律に
通じ、京都で「洋学」を教える塾を開いた。私の先祖
の「牧原仲彦」も そこで西洋医学を学んでいた。

そして「攘夷だ開国だと国内で争っている場合では
ない」と、非戦論者だった点で「坂本竜馬」にも
似ている。

鳥羽伏見の戦いの時は、戦争を回避すべく、京都に
留まって、薩摩との調停に暗躍していたが、ついに
開戦となり、薩摩藩に捕えられた。この時、すでに
盲目であった。

「会津藩士」ということで処刑されるところだったが、
西郷隆盛とも親しかったため、薩摩藩邸に監禁された。
この薩摩藩邸(6000坪)を 後に貰いうけ、同志社に
提供するのである。

薩摩藩邸に捕われていた時に、新しい日本のありかたを
説いた『管見』を 薩摩藩に提出する。それが、新政府に
注目され、明治3年、京都府顧問に迎えられる。

山本覚馬は「産業博覧会」を開催するなどして、京都の
産業を興し、推されて府議会議員になり、議長まで勤めた。
“全盲で”である。

京都は、天皇が東京に移り、多くの公家や大名の屋敷も
空家となって、一時期荒廃していたが、それを、日本で
最も進んだ近代都市にしたのは、山本覚馬の『管見』に
基づくものだった。

京都といえば「千年の古都」として「観光収入」に頼る
町かと思われているが、さにあらず。実は、千年、京都は
日本の最新、最先端技術の工業の町であり、その伝統は、
山本覚馬によって再興され、今日まで及んでいるのだ。

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