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平成の虚無僧一路の日記

「福沢桃助邸」はその後 

2019年04月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



山手線恵比寿駅の東に小高い山がありました。「福沢山」と呼ばれていたそうですが、そうとは知らず私は その下を通って三田まで通っていました。そこが、福沢諭吉の長女「お房」さんと「福沢桃介」の邸宅だったと知ったのは、慶応を卒業して千代田生命に入社した時です。そこは「千代田生命」の研修センターになっていて、入社して一年は教習生として、ここで暮らしました。そして、入社4年目に不動産部に配属された時、土地購入時の一件資料を見つけたのです。業務上知りえた秘密は公開できませんか?千代田生命も無くなってしまったから、まいいでしょう。ここは、お房さんと桃介の邸宅でしたが、400坪ある敷地には、劇場や書生たちの住まいもありました。桃介邸は、二棟あり、その間は渡り廊下でつながれていました。桃介はほとんど名古屋〜岐阜、長野で仕事をしていましたから、めったに東京に帰ることは無かったのですが、帰京してもお房さんは顔を会わせなかったようです。さて、桃介は巨万の富を築いたのですが、昭和13年に亡くなり、戦争戦後を経て、株も紙切れとなり、貨幣切り替えで、何万円もの遺産も100分の1になってしまいました。桃介とお房さんの子の「駒吉」は、精神を病んでいて、看護婦の「八重」さんが付き添っていましたが、駒吉は、八重さんを妊娠させてしまいます。というわけで、事実婚です。そして戦後、駒吉夫婦?は、生活の困窮から、敷地を千代田生命に売却します。 敷地400坪をたしか1万5千円だったと記憶しています。(安い!)千代田生命の創業者は慶応の塾頭を務めた門野幾之進でしたから、福沢桃介の遺児を救おうという気持ちもあったようです。その1万5千円も、戦後の超インフレで、あっというまに価値がなくなり、他の遺族から「売買契約は無効」との訴訟を起こされますが、千代田の勝訴に終わります。さて、駒吉さんはその後 どうされましたかな。

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