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平成の虚無僧一路の日記

千代田生命って? 

2019年04月08日 外部ブログ記事
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千代田生命は、第一生命に遅れること1年半後の 明治37年(1904) 門野幾之進によって創業された。 「相互会社」としては、第一に次ぐ2番目の会社。 門野幾之進は、鳥羽藩の家老の家に生まれ、14歳で 慶応義塾に学び、16歳で教鞭をとり、以来31年、 福沢諭吉の後をついで塾頭にまでなった。しかし 「英語の成績が60点以下の者は落第」という校則を 作ったことで、塾生の反発を招き、塾を退いた。 長年教職にあったが、福沢諭吉が説いた生命保険 の理論を実業に生かすべく保険会社を設立した。 それが千代田火災と千代田生命。48歳の時だ。 時代は丁度、日露戦争が勃発した年。国は、富国 強兵のために八幡製鉄や造船業などの基幹産業を 起こす金が必要だった。 契約者から預けられた掛け金は、そうした基幹産業 に貸付けられ、国威高揚の一翼を担う役割があった。 「人生50年」、平均寿命50歳の時代、もう現役を 退いて隠居の身となってもよい年回りだったが、 門野幾之進は、生損保会社を立ち上げ、みずから 全国を行脚して、生命保険の普及に努めた。? 全国に散らばる慶応義塾のOBを訪ねて廻ったのだ。まだ清水トンネルも開通していなかったから、 新潟に行くには、草鞋を履いて三国峠を越えたという。 塾出身者はたいてい地方では名家であり、それなりに 事業で成功していたから、行く先々で教え子たちの歓迎 を受け、代理店を引き受けてくれた。 だから、わずか1年で契約は1万件を越え、先発の 第一生命を追い抜いた。千代田生命は戦前まで、日生、 第一、明治と肩を並べる大手生保だったのだ。 というわけで、千代田生命は「慶応閥」で「三田生命」 と揶揄されたほどだった。経営破たんに陥ったのも 「お坊ちゃん経営」だったとも。

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