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平成の虚無僧一路の日記

鈴鹿の普済寺 

2018年12月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「鈴鹿市岸岡・普済寺」で検索したら、結構 詳しい紹介があった。しかし、「東福寺(臨済宗)の心地覚心(1207〜1298)が、建長元年(1249)宋に渡り、尺八を吹く四人の居士を連れて帰国。紀州由良興国寺の開山となった」とあるのは間違いである。鎌倉時代の初め、まだ臨済宗などは存在せず、心地覚心は、高野山(真言宗)の僧だった。その覚心が帰国して由良に建てた寺は、当初は「西方寺」といい、高野山の末寺「真言宗」だったのだ。それが「禅宗の興国寺」となるのは、南北朝になってからである。また、「禅宗の中の普化宗は 紀伊,伊勢,志摩を中心に 末寺百四十三ヶ寺を数える関南第一禅林(箱根の関より南の禅宗の寺の第一の寺の意味)と言われた」とか、「虚無僧は全国各地の虚無僧寺(普済寺)」を頼って旅をした」とか、「興国寺に上って免許を得た」などとあるが、これもとんでもない。そもそも、興国寺は虚無僧の本山ではない。虚無僧寺は関東から東北にかけて、100カ寺ほどあったが、箱根より西には、わずか数カ寺しかなかった。浜松の普大寺、京都明暗寺、伊勢の普済寺、博多一朝軒ぐらいである。その数カ寺しかなかった虚無僧寺の一つが、伊勢の鈴鹿にあったということがむしろ注目されるのである。  

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