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平成の虚無僧一路の日記

紀州興国寺は虚無僧の本山? 

2018年12月18日 外部ブログ記事
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「興国寺」といえば、われわれ尺八家にとっては紀州由良の「興国寺」が まず思い起こされる。虚無僧側の伝説では「紀州由良興国寺の開山、法燈国師覚心が、唐から尺八と普化宗を伝えた」と云われているのである。興国寺側では、そのような記録は無く、虚無僧側の勝手な創作と思われるのだが、ではなぜ、「由良の開山」が、普化宗の祖に祀り上げられたのか。一体誰がそのように言い出したのか。それが、北条早雲の三男「北条幻庵」あたりではないかというのが、私の推測である。北条早雲は葛山氏の娘を二番目の妻にし、二人の間に生まれたのが北条幻庵だ。幻庵は幼少の頃から京都で学び、尺八を得意とした。幻庵の影響で、小田原北条家の中では尺八が大流行した。幻庵は小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされる直前まで90年以上生きた。北条家が滅亡した後、北条の家臣の中で帰農することもままならぬ連中が虚無僧となって、関東各地に草庵を建てた。青梅鈴法寺もその一つだった。北条家の当主氏直は徳川家康の女婿であったため、命を助けられ高野山に幽閉される。そこは「小田原別所」とも呼ばれ、かつて葛山景倫が出家した場所でもあった。氏直は心労の末翌年には亡くなり、付き従った家臣300名が浪人となる。その中には虚無僧となって、紀州興国寺を頼ったか、また京都に出る者もいたであろう。虚無僧は高野聖や時宗の徒を真似、諸国を流浪した。高野聖のメッカ「刈萱堂」の主は代々「覚心」と称した。虚無僧にも「覚心」の名は記憶された。紀州興国寺は秀吉に攻められて廃墟となり、そこは虚無僧がたむろする場所となっていた。北条家ゆかりの虚無僧どもは、こうして、遠い記憶を頼って、なんとなく、流祖を「由良興国寺の覚心」に結びつけたのではなかったろうか。というのが私の推測である。

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