おもいでの山々

杖つき峠 日本100名峠 

2018年10月21日 ナビトモブログ記事
テーマ:登山

尾張と信州はお互いに他国だ。気候も風習も領主も異なっていたころ他国に移動することも
少なかった。ただ脱国、国抜けなどとは別に隣の國に興味があって行ってみようとすると海岸沿いに歩くか渓谷を遡り山脈を越えるしかなかった。
領土はほぼ山岳で区切られて地形や山脈がはっきりしていなくても峠道が出来た。伊奈から諏訪に抜ける六峠の一つ杖つき峠がある。伊奈側の最終宿場高遠はいつの戦国の世にも争いの場になり
多数の戦死者が続いた。その数があまりにも多く流れた血を吸って高遠の桜は赤いと言わしめる由縁にもなっている。我が郷土敵に踏ませてなるものか、攻めること火のごとしと謳った武田信玄も杖つき峠を越えて怒涛のごとく他人の地を蹴散らして通過していった。勝頼も越えた。そして戦に敗れ追われ命からがら峠に着いたときは助かったと思ったことでしょう。ここからは諏訪に向かって急坂を駆降りれば自領だ。
織田信長も越えたともある。
信州に届ける塩の道でもあった。
峠は1247mの標高だから着いたときは疲れはてて
たどった道のりを自分の人生と重ね振り返り眼下に見下ろすこれからいく他国に思いを馳せたのは
みな共通なとこかとも思える峠なのである。

江戸の中期将軍家継、大奥女中頭絵島という人が俗にいう絵島疑獄と言われる騒動に巻き込まれてお家継承、風気粛清を含めておとがめは数千人に及んだ大事件があった。ことの発端は城から出ることのない大奥女中絵島が将軍のお母ちゃん月光院に頼まれて故旦那の法要に出向きました。これ幸いとばかり回り道して当時江戸のイケメン芝居役者生島をたずねた。「私大奥女中で時間がないの、はやくやって」と言って不倫疑惑を招いたらしい。さいきんの国会議員のオバサンは一緒に宿泊してても何もしてませんから無罪ですと言い張ってますが不倫のみならず目配せだけでも不義密通で重罪の時代。
ましてや風紀の要、老中の権限に次ぐ大奥年寄女中頭で最重罪打ち首です。旗本のお兄さんは淫らな妹の管理不足責任で切腹を許されず打ち首、死罪6名を含めて1500人が処分された。。不倫相手の役者生島は「僕は年増きらいなんですが老中にも匹敵する大役大奥女中殿なんでお断りできなくて出来なくて仕方なくやりました」と言ったので死罪を免れ絵島の弟と共に小笠原の孤島に遠投島流しに。そのかわり座長は当然死罪! お連れのもの周りに居たものすべてお咎重罪、ついでに江戸中の芝居小屋は小さく質素に制限された。絵島は国会議員山尾氏と同じで入ってないから不倫ではないと言い張り最後まで認めなかったとか! 月光院が倅家継に「ちょっと打ち首は酷いんじゃないの!私が頼んだおつかいなのに」との減刑嘆願によりさらに島流しから高遠城にちっきょあずかりに決まった。絵島は「ほんとにやってないのに酷い罪をきせられて悔しい呪ってやるー」でも「自分の落ち度でやりたいと思ったのすこーしあったから生きていられれてよかったー」と言った。?? 高遠といえば江戸から54里ほぼ外国の感じだったでしょう。
寒中2月江戸から罪人篭に入った絵島一行は高遠を目指して出発した。相模の小仏峠、甲州笹子峠を経て甲府。風雪の急登1000杖を越える峠の急斜面を登りつめ杖つき峠に立った。ここから一歩伊奈の谷に下れば二度と見ることのない関八州を振り返りあふれくる涙を拭ったにちがいない。
高遠には四方塀で囲まれた庵が用意されて幽閉された。2食一汁を許され写経念仏にけくれにほとんど外に出ることはなかったという。罪人のため便りも面会もご法度、身の回りの世話をする小者もつけられなかったようだ。絵島は決して江戸のことは話さなかったという。愚痴や非難めいたことを一切口にすることはなかったという。江戸の作法所作を守り粛正な絵島の暮らし方を聞きおよんだ高遠藩主内藤は八代将軍吉宗にかわると罪の軽減嘆願をして非公式ながら以前より信仰していた日蓮宗の寺に月一度の参拝を許された。江戸の作法所作と身のふるまいに感心した城主内藤氏はことある度に城内女中衆に作法を教えるとの名目で外出機会をつくったという。
杖つき峠を越えてから20余年を無言で過ごし
江戸での最高権力と栄華からまったく離れたこの地で訪ねくる人もなく、寛保元年4月10日高遠の赤く咲いた桜の下でひっそりと息をひきとった。享年61才。
 200年を経て近年地元の郷土歴史家によって山裾にポツンとあった小さな石柱が見つけられて絵島の墓石とわかった。その後所縁あった蓮花寺にそれまで忘れられていた絵島に線香の香がたつようになった。はたして絵島は何を想うのか。

あわれなる 流されひとの 手弱女は 媼となりて ここに果てにし 斎藤茂吉



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