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日本コレラ史から「日清戦争後の陸軍検疫所設置」 

2018年10月14日 外部ブログ記事
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山本俊一著「日本コレラ史」東京大学出版会刊の中に「日清戦争時代には、戦勝後に帰還兵がコレラを持ち帰り、国内の大流行をもたらした。」そのことから陸軍は検疫所を急いでつくった沿革があるので抜粋する。

来る28日の「玉川上水から近代水道と江戸火消しから近代消防を歩く」をガイドするために資料を調べている。
来る28日の「玉川上水から近代水道と江戸火消しから近代消防を歩く」をガイドするために資料を調べている。
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第五章 日清戦争時代
 明治二七−二八年の日清戦争時代には、戦勝後に帰還兵がコレラを持ち帰り、国内の大流行をもたらした。この時ほ従来のように個別的な侵入ではなく、国外から多数の患者および保菌者が侵入して国内各地でコレラの発生を起こしたことが特徴であった。この二年間のコレラ発生状況は次のようである (上の数値ほ届出患者数、下のカツコ内は同死者数)。
明治二七年      五四六(  三一四)
  二八年  五五、一四四(四〇、一五四)

第一節 遼東半島
 日清戦争で最後の戦場となったのが清国遼東半島であるが、日本軍は明治二七年十一月一一日大連に上陸し、十一月二四日にほ半島の要衝旅順を占領して遼東半島を制圧した。明治二八年二月六日には占領地である遼東半島金州の野戦病院の情況を日本赤十字社救護班神野勇三郎が報告しているが、その中でコレラ様疾患について触れている個所があり、この当時からコレラが発生していたのではないかと考えられる。報告中の該当する個所を抜粋してその要旨を次に掲げる。
 「……遼東半島の柳樹屯兵站病院におけるその当時の患者の種類は急性咽喉カタル、急性気管支カタル、肺炎、凍傷、急性胃腸カタル等であるが、その中でも急性胃腸カタルあは劇烈でコレラのように嘔吐、下痢が頻発し、直ちに脈縛細数、全身るいそうが現われ、腹部が陥没して人事不省となり、口渇、腹部痙攣があり、短いものは三時間以内、長いものでも四日で死亡した。私ほこれをプトマイン中毒と考えたが、タラの中毒、天ぶらのような饅頭の中毒と言うものもあり、なお不明である。これを土人に尋ねると、これまでも立春の侯酷寒の時に不注意で薄着をすると、このような侵襲を受けるという。
 なおその後の報告によれば、遼東半島柳樹屯陸軍兵粘病院における明治二八年三月三日より同年五月三一日までのコレラおよび吐潟病患者数ほ軍人八六四人、軍属その他五ニ四人、合計二三九八人うち死者数四五六人(致命率三二・六パーセント)であったという。
 なおこれとほ別に、次節に述べるように、台湾膨湖島の攻略に向った日本軍隊の間にもコレラの発生があった。このような緊急事態の中で、陸軍省では帰国する兵士のために臨時検疫所を設置することとなり、四月五日より事務を開始した。当初の予定でほ門司(福岡県)、似島(広島県)、天保山(大阪府)および小樽(北海道)の四カ所にこれを設置することがほぼ決定し、六月下旬に事業を開始することを目標に建設を進めることになった。陸軍ではこの計画を推進させるために突貫工事によって検疫所を建設し、効果的に検疫を実施することによって軍隊移動によるコレラ国内侵入をくい止めようとしたが、その準備が十分に整わないうちに、全国各地で患者が発生した。その中でも特に侵入門戸となった広島、門司および大阪の被害が大きかった。

第二節 膨 湖 島
明治二八年三月一五日、日清戦争の講和談判に入る直前に日本艦隊の主力艦松島、厳島、橋立から構成される本隊と第一遊撃隊の四隻が、陸軍のいわゆる比志島混成枝隊の運送船五隻を護送して佐世保を出港し、同月二三日台湾膨湖島扶北砲台を砲撃した後に混成枝隊を上陸させ、さらに翌朝には海軍陸戦隊を上陸させた。この攻撃により同月二五日には全島を制圧した。ところが、この頃から日本軍の間にコレラの流行が始まった。そもそも輸送のうちの一隻鹿児島丸がまだ佐世保に停泊していた頃に既に吐潟患者があったと伝えられたが、いずれにしても膨湖島までの航海中に同船内にコレラ疑似症が発生し、三月二八日の公電によると患者四九人、死者三二人であったという。また別の輸送船金州丸にも患者発生があったという。
 このような多数の患者発生に対処して、陸軍は馬公に避病院を設けたが、患者が多数のためこれに収容しきれず、舎内の土間に患者を置くだけでほ足りず、二〇以上のテントを使用して収容したという。治療のための軍医、医療品が不十分であったばかりでなく、飲料水、食糧も不足し、死体の埋葬にも自由にならない状勢であった。こうして患者発生ほ四月二七日正午までに約四〇〇人、五月三一日までに五五五人、そして最終的には患者総数一、五二九人に達し、そのうち一、一三〇人が死亡した。死亡者は派遣された陸軍軍人、軍夫の約二〇パーセントに相当する大きな被害であった。
 一方、金州半島からの帰国兵士を乗せた軍用船二隻が四月八日下関港(山口県)に到着したが、このうちの一隻には、乗組員一三九人のうち八人のコレラ患者があり、そのためこれを神戸港に回航させることになった。また、四月一二日に宇品港(広島県)に到着した別の一隻の軍用船にも、乗組員五八〇人ばかりのうち二八人のコレラ患者がいた。

第二節 陸軍衛生長官訓示
 凱旋する軍隊に対する検疫を陸軍の責任において実施する上で基本となる検疫規則は制定されたが、これだけで直ちに検疫が実施できるものではない。このようなことほ、わが国でほ最初の試みである上に、これを実施するにはいろいろの困難が予想された。そもそも、日清戦争がわが国の勝利のうちに終結したにもかかわらず、不測のコレラ流行により帰国時期が延期されたことに対し、また帰還に際してほ厳重な検疫を実施することに対して軍隊の間に不満が高まって釆ている状況を考慮して、五月一三日、遼東半島旅順において石黒恩恵野戦衛生長官は、陸軍自らの手にょって行なう検疫の意義を説明するために、部隊付き軍医に対して訓示を行ない、この趣旨を全軍に徹底するよう命じた。その要旨は次のようであった。
 「巨額の国費をもって新たに屋舎、器械を装置し、全凱旋軍を消毒することは文明諸国のいずれも希望するところであるが、それを実行した例は今までになかった。今回特にわが陸軍に臨時検疫部を置き、これを実現しようとする理由は、一つは光栄ある凱旋軍人が全く病毒をもたずに健康に帰国できるようにしたいということであり、もう一つは昨年より凱旋軍を歓迎している国民に対して各種の戦争伝染病を感染させたくないということである。
 元来伝染病に対する海港検疫は内務大臣の所管であるが、多数の凱旋を消毒することは常設の消毒所実施できないおそれがあるので、特に陸軍がこれを負担したのである。であるから、この検疫消毒に不行き届きのことが起こるとか、これを受けないというようなことが万一起れば、これはわが陸軍の汚名となるであろう。各兵士がこの意義を了解するように努める必要がある。検疫のための船内衛生の要点ほ次の通りである。(以下略)

第三節 臨時陸軍検疫所
「臨時作岬検疫部検疫規則」第一一条(前出) に基づいて、次の各地に臨時陸軍検疫所を設置すること、ならびに開庁の予定を次のように定めたことを陸軍大臣は五月十五日付で公布した。
似鳥臨時陸軍検疫所(広島県) 明治二八年六月一日開庁
彦島臨時陸軍検疫所(山口県) 明治二八年六月五日開庁
桜島臨時陸軍検疫所(大阪府) 明治二八年六月一日開庁
 この三カ所の臨時陸軍検疫所において、開所後七月一〇日までに実施した検疫の活動状況およびコレラ数ほ次のようであった。
似島検疫所(六月一日−七月一〇日)
検疫船舶      一一二隻
検疫人員    四〇、四一八人
検疫コレラ患者数
コレラ      一〇七人
疑似コレラ     二〇人
所内発生コレラ患者数
コレラ       五六人
疑似コレラ    一九四人
彦島検疫所(六月五日−七月一〇日)
検疫船舶       五七隻
検疫人員   一九、四二八人
検疫コレラ患者数
コレラ       九六人
疑似コレラ     五六人
所内発生コレラ患者数
コレラ       五六人
疑似コレラ     一二人
桜島検疫所(六月一日−七月一〇日)
検疫船舶       二五隻
検疫人員   一〇、七一三人
検疫コレラ患者数
コレラ       一〇人
疑似コレラ     一三人
所内発生コレラ患者数
コレラ       ニー人
以上の三個所の陸軍検疫所で検疫を行なった船舶ほ約四〇〇隻、人員ほ約一五万人、船内伝染病者一、000人以上であった。この期間中に検疫活動に従事中コレラに感染し死亡した職員は弘田少尉以下五〇人余であった。

第五節 殉 職
 陸軍検疫事務に従事しているうちにコレラに感染して殉職した検疫所職員は五〇余人にのばった。そこで児玉陸軍次官、後藤衛生局長その他関係者が発起人とな・り、その功績を表彰するために記念碑を広島市饒津(にぎつ)公園に建設することとなり、次の要旨の趣意書が各方面に送られた。
 「疫病が戦争に伴うのほ古今の原理で、遂にその病毒を本国にもたらし、戦争終了後にも再び兵力を減殺し、国力を損傷した例は内外に乏しくない。
 今回の日清戦争が終了すると、臨時陸軍検疫部を設立し、彦島、似島、桜島の三カ所に陸軍検疫所を開き、凱旋軍隊に対して検疫消毒法を施行し、これによって凱旋軍隊の健康を保全し、人民に対する疫病の伝播を制圧し、よく防疫の功績を全うしたのほ誠に世界に未曽有のことであった。
 各検疫所において事業を開始して以来、検疫した船舶四〇〇余隻、軍人、軍属一五万人、その消毒を要した荷物、携帯品の数もまたこれに準じ、その船内伝染病患者の数ほぼとんど一〇〇〇余人、時には一船に二八〇人という多数の患者を出したこ一ともあった。特に船舶の入港が盛んな時に際してほ、連日連夜にわたり業務に従事した当局者の労苦を推察しなければならない。あの恐るべき伝染病毒に接触してこの激務に当る者ほ、その苦難、その危険は弾丸が雨のように注いでくる所にいる者とどうして区別ができようか。実に多数者の生命、財産、権利を安全ならしめるために一身を犠牲に供することほ、いわゆる「身を殺して仁をなす者」である。その忠君愛国の道もこれ以上にほないほずである。すなわち検疫の事業こそ仁の中の仁である。
 ああ、疫病に対するその戦略およびその危険ほどうして筆舌に尽すことができようか。先日ほ畏れ多くもこのことか宮中に達し、天皇は各地に勤務する職員以↑に慰労として金一封を↑賜して下さった。われわれは深くこの大恩に琴るとともに、深い悲しみに堪えないものがある。すなわち、別記彦島陸軍検疫所事務官陸軍歩兵少尉弘田伸頴君以下五〇余人がその職にたおれたことである。
 しかしながら、この諸君が奮然として危険を冒し、終にその職に死ぬことがなかったならば、どうしてよく全軍の健康を今日のように維持することができたであろうか。誠にこの諸君の忠死はわが帝国陸軍検疫の大事業とともに、その功績を石に刻んで永く伝えないわけにはいかない。そこでわれわれほ、共に相談して建碑のことを計画し、部内諸君ならびに部外有志諸君に訴えてその資金を募集することにした。同志諸君どうか賛同してほしい。」
(ここでの殉職者が靖国神社で英霊として合祀されているのかどうかは、今後調査してみる。)


(了)

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