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京都がなぜいちばんなのか(3) 

2018年10月12日 外部ブログ記事
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焼失前の金閣寺と現在の金閣寺

 ☆焼失前の金閣寺は国宝に指定されていたが、現在の金閣寺は国宝の指定を解除されている
 ☆再建された現在の金閣は、国宝ではない
 *現代の人間は、焼失した金閣は、今と同じと考えてしまう
 ☆金閣寺の再建も、焼失以前の姿に戻すことを目的としていたと思う

焼失前の金閣寺の姿
 ☆焼失した金閣は、現在とは相当に異なるものだった
 ☆焼失前の姿で再建されていたら、参拝者の受ける印象もまったく違った
 ☆焼失前の姿にしたら、年間600万人もの参拝者を集めることが出来なかったのでは?
金閣寺を有名にした、三島由紀夫の小説『金閣寺』
 ☆三島由紀夫の『金閣寺』小説を読むと、読者は金色に輝く金閣であったと考えるであろう
 *小説で主人公が火をつけた金閣寺は、今のような建物ではない
 *話が複雑なのは、三島が小説のなかで、「金閣の美」を問題にしているから
 ☆多分、三島由紀夫は、焼失前の金閣を見ていなかった
三島が見たのは「キンキラキンの金閣寺」
 ☆三島が『金閣寺』を書くために取材に訪れたとき、金閣寺からの取材を断られた
 ☆金閣寺が禅寺なので、臨済宗の妙心寺に泊まり込んで、禅寺での生活を調べている
 ☆三島が見たのは、再建された「キンキラキンの金閣寺」だったのでは
金閣寺は、足利義光の住居として改修された
 ☆金閣寺がある土地は、花山天皇孫の白川伯王家のもの
 *その土地は、西園寺公経の所領と交換され西園寺家のものとなった
 ☆西園寺家は、その後衰え西園寺も荒廃し、足利義満が復興した
 *舎利殿には、当初から金が用いられていた
金閣寺足利義満亡き後荒廃
 ☆義満が亡くなると、北山殿は取り壊され、堂舎は他の寺に引き取られた
 ☆金閣寺には、舎利殿、護摩堂、法水院だけが残され禅寺に改められた
 ☆応仁の乱で、金閣寺も損害を受けた
 ☆本格的に復興されるのは、江戸時代に入ってから
金閣寺江戸時代からの復興
 ☆徳川家康の命により、実力者の西笑(さいしょう)が住持となり経済基盤を固めた
 ☆西笑の後を嗣いだ凰林承章は、庭園の整備を行い、金間も修理した
 *承章は公家の出身で、後水尾天皇などと親しい
 ☆これにより、焼失するまで金閣はもった
金閣寺の役割
 ☆金閣はあくまで建築物で、建築物は一般的に外観を見せるためにではない
 *金閣寺の中に、仏舎利や仏像を安置しており、それを拝むための建物だった
 *池やその背後の衣笠山を眺めるための建物でもあった
 ☆金閣寺は、仏舎利や仏像を拝み、池を眺めるのが本来の役割だった
焼失前の金閣寺の金箔の使用
 ☆金閣が、現在の金閣の様に第二層と第二層に全画的に金箔を貼っていたら
 *それを護るために、巨大な覆堂が必要とされたはずだが、覆堂は造られていない
 ☆外壁には、金箔は貼られていなかったのだろう
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『京都がなぜいちばんなのか』







焼失前の金閣寺と現在の金閣寺
(『京都がなぜいちばんなのか』記事より画像引用)

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