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シニアの放課後

<シオトリの唄>F 

2018年10月12日 ナビトモブログ記事
テーマ:小編物語<シオトリの唄>

 ハガシッペは、乾いた海苔の付いた海苔簀の一枚裏返してから、海苔簀の右を少し海苔からめくるように剥がし、海苔の右端をヘラで押さえ海苔簀を引き剥がしていく、海苔を剥がすというより海苔簀を剥がすという作業だった。剥がす時に少しでも破れたら評価が半値にも下がり、海苔付けにむらがあったり薄すぎたりすると破れやすくなり、海苔剥がしは難しく大切な作業だった。
 幹夫は、海苔剥がしをするな、と誠三から言われていた。おばあちゃんも誠三から止められていたので、一枚くらいとは思っても、気を使ってさせてくれなかった。それでも幹夫があまりしつっこかったので、根負けして誰も見ていない時に、内緒だよ、とさせてくれた。おばあちゃんのするように真似て、ゆっくり海苔剥がしをしたが、海苔簀を上手く剥がせないで、海苔は破れてしまった。
「お父さんの言うことが分かったね。内緒だからね、大きくなってから手伝っておくれ」
 おばあちゃんのハガシッペ、とっても上手で自慢したくって学級新聞に書いたことがあった。

「おばあちゃん、うん…」
 リヤカーを押して来ておばあちゃんが見えると、息せき切ったように走り寄って話しかけようとしたが、何も出てこなかった。いつもだったら、おばあちゃんを見ると抱きついたのに、つい今の今まで何ともなかったのに、おばあちゃんに一声かけたら、誠三と一緒に海苔採りをしたことがうれしくなってしまった。
 おばあちゃんの前に突っ立っていたが、幹夫の笑顔には満足そうな表情があった。
「えらかったね。たくさん採ったかい。うん、無事でよかったよ」
 おばあちゃんは手を止めて、うんうん、と頷くと、母屋のふみ子のところへ行くように言った。
 ふみ子、おばちゃん、弘子たちが海苔作りの最後の作業、おばあちゃんたちが剥がした乾海苔を一枚づつ調べながら十枚重ねて半分に折り一帖として、十帖を一束にして紙帯で束ねていた。
 博史の家の番号のある千八百枚入りの平箱に詰め、毎日組合へ運び、夕方からの共同入札にかけるのだった。
「かあちゃん、帰ってきたよ。たくさん海苔採ったよ、ぼく」
 おばあちゃんの時より、楽に話し掛けることができた。ふみ子は、母親に話し掛けた幹夫の声を聞いて、ほっとしていた。
「幹夫、これ、幹夫が作った海苔だよ」 
 博史が、海苔の入った透明な袋を渡してくれた。朝、幹夫の付けた三枚の海苔だった。思ってもいなかったことに、博史おじちゃんを見て、またうれしくなった。
「おじちゃん、おばちゃん、ありがとう。母ちゃん、これ、ぼくが作った海苔だよ」
 海苔をふみ子にかざしてから、外へ飛び出した。

 誠三たちの仕事は、まだ終わっていなかった。
 大森の海のことを、家(うち)の下、と呼び、大森沖で自然に採れた海苔を、地子(じっこ)といって、その中に代表的な浅草海苔があった。アサクサ海苔は柔らかくて、味も香りもよかったが、アサクサ海苔に劣らずの、成長もよく、病気にも強いスサビ海苔を養殖するようになっていた。
 採ってきた海苔にスサビノリ以外の海藻、水草が混じってると、色、柔らかさに同じ海苔ができないので、女衆と生海苔を板に拡げ、箸でゴミ、不純物を取り除くことも毎日の作業だった。それが終わると笊に入れたままでは蒸してしまうから、翌朝まで、厚めの竹の筵に拡げて置いた。
 夏夫は、おばあちゃんの傍で海苔簀のかたずけをしていた。
 ゆがんだ海苔ができないためにも大切な海苔簀だった。海苔滓が残ってたり、歪んでたりすると真直ぐのいい海苔ができず、きれいにして置かなければならなかった。
 海苔簀は葦を編んで作り、初めて使う新簀、二年目中簀、三年目古簀とはがれも悪くなり、三年が限度だった。おばあちゃんたちは、悪くなった海苔簀を除けたりもした。博史の家では少ない時は五、六千枚、多い時には一万枚を越す海苔付けすることもあって、海苔簀はそれの三倍以上あった。
 その日の海苔が採れるほどにシオトリたちの一日の終りは遅く、翌朝は早くなった。海苔屋の一年は十一月から三月までの冬の短い間しかなく、誰もがたくさんの海苔が取れることの忙しさを嘆くことはなかった。
「とうちゃん、にいちゃん、僕が作った海苔だよ」
 誠三と夏夫の傍に行き、自分の作った海苔を見せた。
「よかったな。ちゃんとお礼言ったか。おばあちゃんにも、みんなに言うんだぞ」
「うん、おばあちゃん、ありがとう。これ、僕がつけた海苔だよ」
「幹、もう一度博史さんのところに行って来てくれ。行けばわかる」
 走って博史のところに行くと、海苔のたくさん入った段ボール箱を渡された。
 誠三が海苔切り、海苔付けした中山に納める千枚分と、山元から頼まれた厚め、薄めに付けた二百枚分だった。山元は、料理に海苔細工も手がけるようになり、時々海苔に細かい注文をつけて依頼してくるのだった。

 誠三は、田中の家の二年目の冬に、海苔問屋先代の中山に出会った。
 大森での海苔屋は、納める海苔問屋が決まっていて問屋の主人、番頭五〜十人くらいがグループになって海苔屋を回って、品定め値付けして一番高い価格をつけた問屋が引き取るという庭先入札を行っていた。
 先代の中山が、田中の家の海苔を見定めていた時、いくつもの箱から束を選り出し始めた。
「田中さん、これらの海苔抄いたのは誰だね」
 田中の奥さんは、誠三だということを告げた。
「明日、誠三さんの抄いた海苔を全部、別にして置いて見せてくださいな」
 翌日、田中の親父と誠三は先代の中山が来るのを待っていて、誠三の抄いた海苔を見せた。
「きれいだ。きれいに海苔が並んでる、海苔が生きてるよ。良い板海苔だ。これから誠三さんの付けた板海苔は、うちで全部入れさせてもらいたい。どれだけでもいい、買値はきちんとさせてもらうから、それと、お願いしたいこともあるんだが」
 その日から誠三の付けた海苔は、すべて中山に納めることになった。
 海苔の味質の良し悪しで、評価は変わったが、海苔の用途によっても、求められる海苔は違っていた。海苔巻き用には少し厚めに、舌触りの食感を求めるには、薄めの海苔が好まれた。薄くてむらのない海苔を付けるのは難しく、誠三の抄く海苔は、きれいで斑がなく薄くても透けて見えない、いつも質が同じだった。
 博史の家に移っても田中の家はそのことを許してくれて、中山の若旦那にも引き継がれた。戦後の二十七年に組合での共同入札が始まり庭先入札がなくなっても、中山は誠三の海苔を買い続けてくれていた。
  文子たちが束ねた後、三郎と夏夫が千八百枚入りの四箱をミゼットで組合へ運んで行った。

 誠三は海苔問屋中山の家に海苔を届けた時、二百枚が乾燥できたら江戸家に納めに行く話をしたら、一緒に行こうと、俊太郎も誘って待っててくれと言われた。
 貴船神社の境内の真ん中にある小さな太鼓橋で、寒い中幹夫は一人遊んでいた。
「それ、大社に預けるよ。迷惑がるかな。昔から、諏訪人は大森には世話になってきたのだから、それくらいいいよな、それとも黙って、境内のどっかへ埋めて来るか。それか、ポン太にでもあげようか」
「ポン太さんには、ちゃんと、ありますよ。中山さんに手伝ってもらわなければできないし、職人さんに聞いたら、おもしろいって、いろいろ考えてくれるって」
「そこまで進んでるなら、誠さん、もう作るだけだな」
「いや、はずかしいが、人に知られても、余りかかり過ぎるのも」
「いや、今年には結論が出るだろうから。それを考えたら、そのようなこともいいんじゃないの。やってくれるよ、中さんは」
 中山とは、先代の親父さんにお世話になって以来、相性が合うというのか、折となく二人を誘ってくれた。中山は何年も前から、誠三に海苔問屋の仕事するように誘ってくれていた。
「もう充分、博史さんには尽くしてきたよ。博史さんも、自分で決めなければならないだろうしね」
 東京湾埋立十ヶ年計画が始まり、大森から海苔が消えることを信じたくなかったが、オリンピックを目前に現実味を帯び、海苔屋で仕事をしているシオトリたちにとっても切実な問題だった。
 誠三は、大森の海苔を残したいと思った。五十年後、いや百年後、千年後と、誰かが見つけるまで、何とか完全密封して現状維持保管できないものかと、大それた遊び心の思いで、大森の海苔を後世の人に残して見せたかった。どうすればいいのか、地元の缶の仕事をしている人に尋ねたところ、面白いとは言ってくれたのだったが、単に缶に密閉するだけでは、どれほどの期間、中身に変化が無く維持できるかということまではわからなかった。
 誠三は、とにかく作ってみたいという気になっていた。
 海苔は、空気に触れると湿りやすかった。天日干し、ストーブ乾燥で水分十二、三%くらいまでになったが、それでは、萎び、艶のある輝きを持つ青黒い色から茶褐色に悪くなってきて、香りも味も悪くなってきた。海苔問屋は、ホイロという保管箱で水分二〜三%まで乾燥させて品質の変わらない状態で保管して、春から夏の間の注文に応じて出荷するのだった。

〜続く〜



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