メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

シニアの放課後

<シオトリの唄>D 

2018年10月10日 ナビトモブログ記事
テーマ:小編物語<シオトリの唄>

 ふみ子も真似でもいいと、時に諏訪神社に寄っては、誠三の言うように、手を合わせられることに感謝します、とお祈りするようになっていた。
 夏夫が生まれた翌年、召集が来て出征する時、下社の脇に繁った苔を掌に半分ほど剥がして、二人の写真と一緒に入れたお守り袋を作って持たせた。ふみ子は、諏訪神社で初めてお願いの手を合わせた。
 誠三は、苔を持ち帰って来てくれた。
 その苔を少しの井戸水に浸してお勝手の隅に置いた。一、二ヶ月と忘れかけた頃の暖かくなりだした季節に、苔に少し青みがかって来るのが見えた。喜びを誠三に伝え、緑豊かに生き返った苔を下社の脇に返したのは、幹夫が生まれてお宮参りの日、夏夫、弘子も一緒だった。その日誠三は、諏訪神社の氏子に入れてもらいたい旨を総代にお願いをした。
 諏訪橋を過ぎたところで、二人は幹夫たちに追いついた。俊太郎や女の子、夏夫の吹く笛に合わせて、鉦、太鼓の音、諏訪と書かれた三郎の持つ大団扇も舞っている中、幹夫は鉦を鳴らし、傍を弘子が歩いていた。
 諏訪を出て、大森に住むようになりお祭りにまで参加するようになって、みんなが楽しみの時間を持てることに、誠三は嬉しくなり、瞬の間大森でのいままでの生活を振り返ったが、すぐ思い直し、鉦をうつ幹夫の頭を引き寄せた。ふみ子は弘子と手を繋ぎ、二人に目を向けていた。


「ふぁ〜、寒い」
 べか舟の舳先、幹夫はどてらと毛布に包まって休んでいた。二時間ばかり続けていたが、朝早かったこともあって寒さにもかかわらず、こっくりしたのだった。大人たちでも寝不足で海苔採りに出た時など、震える寒さにもかかわらず、どうしようもなく眠くなることがあった。
「とうちゃん、ぼく、寝ちゃったよ」
「ご飯食べようか」
 海苔採りの仕事は、とにかく腹が減って、よく食べた。海苔付けしながら、海に出る前に食べてきた。時に船道に停めてある親船に集って食べることもあったが、たいてい十時頃に一人べか舟で食べた。
 夏夫を呼び寄せて、炭団の入った炬燵と一緒に毛布に包んであった弁当を出し、三人での寒い海の上での昼飯だった。一人の時は、おかか入りの海苔巻き、ご飯に塩味の利いた鰹、鮭に沢庵、佃煮などで腹ごしらえをしたが、今日はいろいろ入っていた。
「幹夫、海苔採り、辛くないか」
「うん、大丈夫だよ。寒いのは、我慢するよ」
「久しぶりの海苔採り、あらためて大森の人たちの苦労がわかったよ」
 夏夫は、誠三に連れ回されていた頃のことを思い出した。誠三の帰ってきた翌日から、どんな時も一緒だった。幼い頃ではあったが、大きくなったら海苔採りをするんだ、とも言っていた。それまでは博史が父親代わりだったから、誠三が傍にいることで、ほんとうの父ちゃんなんだ、とうれしかったことも憶えている。
 小学校へ入る頃に幹夫が生まれて、誠三の心が幹夫に移っていったのを幼心に感じたことも覚えている。誠三の幹夫への接し方が自分の時とは何か違うように感じて、そんな誠三の心など分かることなく、拗ねたり反抗してよく怒られ殴られた。
 誠三は、夏夫を一才になるかならないかの時まであやしてたことがあり、空白の時間を感じることなく夏夫を傍に置いた。幹夫に怒ったこともなかったが、弘子にもなかった。誠三が夏夫を傍に置いたようには、弘子にはそうしなかった。弘子も誠三には寄ろうとしなかった。
「私、一度も抱っこしてもらったことないもん。私のおとうちゃんは、博史おじちゃんだもん」
 中学生になるまでふみ子にこぼしていて、今でも博史の方になついていた。
 それでも夏夫は高校生まで、海苔屋になってもいいなと思っていた。

 大森沖の東京湾は、様々な埋立計画が発表されてきた。
 昭和初期の京浜運河計画に始まり、その後の空港整備拡張、臨海工業地帯造成計画等、その都度の漁業継続の運動にもかかわらず、昭和三十年代に、海苔漁場の全面中止を前提とした埋立計画が発表され、湾への土捨てがあったり大森沖の海水受難の第一歩が始まった。
 東京湾で生きてる漁民にとって命の元の漁場が削り取られていくという現実が、海苔屋は、身体に感じる冬の寒さだけではなく押し寄せてくる目に見えない心の不安感との戦いを抱きながらの海苔採りを続けていた。
 昭和三十五年に東京都港湾十ヶ年計画が決定、全面放棄という暗闇を目の前に突きつけられた。
 夏夫、公平が高校生になった頃だった。
 誠三は、誰からも分家独立を勧められていた。博史も、そうして欲しいと言ってくれたが、博史の家に移った時からその気持はなく、帰ってからも分家するという気は起きなかった。分家するにしても、博史の家で公平が後を継ぎ、夏夫が海苔屋になることを決めてからでも遅くないと思っていた。
 ある時博史は、公平に海苔屋の後を継がせる気持ちを捨てたのだった。夏夫も同じように、誠三は博史の家に来るな、とまで言い切った。
 数年大森の海苔は豊作が続いて、戦後の大森の海苔業が最盛期を迎えている時期ではあったが、子供たちの時代に海苔業が続けられるのか、大森の海がどうなっていくのか、夢を持ち続けられるのか、誰もが考えられなかった。
 夏夫は、海苔屋になりたいと思ってたことも、幹夫のせいで突き放され寂しかったことも、いまは理解できるような気がした。目の前で幹夫が海苔巻きを頬張りながら、海苔屋になりたいと、同じ夢を持ったことがうれしかった。
 夏夫は自転車屋のおばちゃんに買って貰ったカメラで、フィルムがなくなるまで写した。三人の海苔採り姿も写し合った。
「さあ、また始めるぞ。海苔採ってたほうが寒くないからな。なあ、夏夫」
 海苔採りは五時間、六時間と腹ごしらえの時以外休むことなく、シオトリたちは、寒さを避けるために身体を動かし続けるのだった。
 この日の海苔採りが、幹夫の最初で最後になるとは誠三も思わなかった。


 お正月一日の夕方、お茶屋江戸家の板場に、誠三と夏夫、幹夫がいた。
 海苔採りの休みは、潮の引かない潮口という旧暦十一日、二十六日の二日だけで、お正月の一日も海苔採りをしていたが、戦後になって、元旦だけは休みにという組合の申し合わせができて、それでも二日からは、海苔採りをする海苔屋のお正月だった。
 海苔採りこそなかったが、早朝の二時頃からの大晦日分の海苔付け、海苔干しはいつもと同じだった。
 田中の家で海苔作りに興味を持った頃、海苔細工を思いついたのだが、長い間、頭の中だけで遊んでいた。帰ってきてから夏夫と弘子を喜ばせたいと思って、折り紙を真似てお内裏さまとお雛さまを作ろうとしたが、海苔はすぐに破れてしまった。それならと簡単な笹舟を作ってみたら、なんとか笹舟に見えた。それでも折ることだけでは無理があり、海苔の厚みを変えたり切り込みを入れたりすることでできるようになった。舟、兜、帽子など直線的な形から、曲線的な帆掛け舟、風車などの海苔細工を楽しめるようになり、大きさも調節できるようになった。
 ふみ子の毎日は海苔屋の仕事もしながら、博史の奥さんと一緒にシオトリ、ホシッカエシたち、多い時は二十人もの食事の世話、どこの海苔屋も忙しさの中で手間を掛けた準備などできなかった。それでも公平兄弟、夏夫、弘子たちの弁当は、手を抜かないように心がけた。ある朝、ふみ子が弁当のご飯に海苔を散らしているのを見て、誠三は、海苔でお雛様、兜、飛行機、を平面的に切り細工、ご飯の上に置いて、開けても蓋に海苔が付かないように工夫してみた。
「いいんじゃない、喜ぶわよ。私も、これから真似してみる」
 博史の家にいるほうが長い毎日、忙しくても子供たちの弁当に工夫を始めて、ふみ子一人の楽しい遊びになった。子供たちが学校で弁当を開けた時に、おかずの種類よりも、おやっと思うようにと、みんな喜んでくれたが、弁当中身全部ハート型に、玉子焼き、海苔、沢庵、ご飯もいろいろ作った時は、公平、夏夫は、恥ずかしくって、すぐかき混ぜたと、もう少し考えて作ってくれ、と二人が言ってきた。
 そんな誠三の遊びで鬼の面、兜、舟、帽子を作っては、子供たちにも見せたりしていたところ、いつしか中山に知れることとなった。
「これ、おもしろいよ。なんとか、みんなで楽しめないかなあ」
 江戸家の女将の耳に入れ、中山、女将、板長の前で、誠三は海苔を折り曲げたり切ったりの細工で舟、風車、飛行機、黒い薔薇、牡丹などを作ってみた。
「大森ならではの海苔細工、いいですね。いい形にとか、格好よくとか作ろうとしないで、不恰好に大げさに作ってみてはどうかしら、大人のためじゃなくって、子供が喜ぶように、座敷に上がったお客の心は、子供みたいなものですから」
「海苔はすぐ湿気るから、長く持たないですね。刺身皿は無理。小さく作れば、山葵受けなら。そうだ、山葵味、海苔に山葵を塗ってみては、そうだ、それを味わう。わさび海苔、海苔わさび、うん、面白そうだ」
 板長の山元は一人で悦に入りながら、料理を盛る器に利用できないかとか、その海苔を食するにはとか考えていた。
 料理人は、食の材料で飾り物を作ったりするが、山元は、江戸家で催しがあったりすると、大ぶり大ぶりの氷細工なども手がけたりする技を持った板長だった。

〜続く〜



拍手する


コメントをするにはログインが必要です

PR





上部へ