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シニアの放課後
<シオトリの唄>A
2018年10月03日
テーマ:小編物語<シオトリの唄>
大森の小学校では地場産業の海苔を学ぶ授業があって、海へ出て海苔採りをしたり、海苔作りもしたが、幹夫は、父誠三の海苔採りしてるところを見たことがなく、一緒に連れてってよ、とねだり続けていた。
天気予報は晴れ、海はおだやかというだけで海へ連れ出すわけではなかった。冬の寒い海での刺すように冷たく辛い海苔採り、小さな舟に命を掛けての危険な作業を、小学生のうちに一度は経験させたいと思っていたこと。もう一つ、この冬が終わると海苔採りができるかどうかわからなかったことも大きな理由だった。
ふだん、誠三とふみ子は子供たちの寝てる間に家を出たが、幹夫の準備もあり、誠三は先に自転車に乗った。
一人の時だけ少し回り道、近くの諏訪神社に向かうのだった。鳥居の前で自転車を止め本殿に向かって手を合わせた。取って返し小学校の新川沿いを線路も、国道も横切ると、家々には明かりが、トントン、トントンという音が暗やみを通して聞こえてきた。
底冷えの続く二月、真夜中に起きての海苔仕事も、あとひと月余で終わる。
諏訪生まれの誠三が大森に出て来たのは、戦前の今から二十数年前のことだった。
江戸時代から諏訪地方では、江戸へ奉公、出稼ぎに出る者が多かった。大森の地、冬場だけの海苔採りに、諏訪人は冬の寒さにも我慢強く真面目なことで重宝がられた。諏訪の男たちにとって、大森の海苔屋で奉公して来たと言えば、それだけで人の見る目も違って信頼を得る尺度でもあった。
大森の海苔を江戸市中で売り歩く者、東海道中心に街道筋を地方まで行商する者、諏訪商人と呼ばれるようになり、海苔採りに従事して大森の地に住み着いたりする者も多かった。
諏訪の海苔問屋の跡取息子俊太郎の勧めで、その俊太郎も冬の季節になると海苔採りに大森の田中の家に来ていた。
「海苔屋の仕事はきついけど、一緒にやって見ようぜ。誠さんには合ってるような気がするな」
冬の季節、大森の海苔屋へ住み込みで出稼ぎに来る男衆のことをシオトリ、下働きなどに来る女衆のことをホシッカエシと呼んで、誠三が住み込む海苔屋の田中の家は、冬になると二、三家族が同居しているようだった。
誠三は、そんなシオトリの一人になった。
毎日深夜の一、二時頃に起きて、海苔作りは朝まで続いた。
朝、昼、夕の日々刻々変わる干き潮の時間に合わせて海に出て、数時間の海苔採り、一日に二回海に出ることもあった。夕方からは、カーバイトの明かりで海苔採りをした。
浜から上がっても海苔仕事は休むことなくあり、寝るのは早い時、夕食後の六、七時、遅い時は二、三時間しか寝れない時もあった。
海苔屋の一日、一週間、十日と過ぎていくうち、俊太郎の騙し騙しの励ましにもつられ、海苔仕事をこなしていると、海苔に興味を持ち始めた。
「時々、つまんでみな」
俊太郎に言われて採った生海苔を口にしてると、海苔の感触、味覚、初めのうちは、よくわからなかったが、その都度、舌触りに違いがあるのを感じ始めた。
「誠さんの作る板海苔、いいよ。うん、上手くなると思うよ」
手慣れた俊太郎を真似て海苔作りにを覚えてくると、きれいな、いい海苔を作るということにも慣れて、厚い海苔、薄い海苔を自在に作れるようになってきた。
海苔は、寒い冬の季節に海中の木枝、岩に付着して育つ青黒い半透明な海藻だった。大森沖の海苔養殖は江戸時代の千七百年頃から、浅瀬に木枝を挿して海苔が付いて成長するのを待つことから始まっていた。
大森沖の海に育つ海苔は、東京湾の海流に内陸からの淡水が混じり、満ち潮時に海中の栄養分を、引き潮時に太陽の日を浴び、おいしい海苔の育つ環境に恵まれていた。
戦前までの海苔養殖は、竹ヒビといって葉を落とした竹枝に、秋口に千葉の海岸で海苔の種が付くのを待ってから大森沖の海中底に挿し移して、竹ヒビで成長する海苔を採った。
戦後になって、竹枝に代わり、棕櫚を撚って編んだ九十a幅の網を使う方法が普及してきた。水平に張った海苔網の上下調節もできて、潮の干満に関係なく、毎朝日の出と共に海苔採りができるようになって、一日の仕事が安定して、身体も少し楽になってきた。
海苔養殖場は大森の沖へ沖へと拡がり、収穫量も多くなっていった。
豪雨、強風、霧で二、三日も海に出れない日が続くと、大森中の海苔屋の落ち着きがなくなり、海苔を、運草とも言ったように、天気まかせ、海まかせの海苔業の毎日だった。
真冬に身体を張っての挑戦的な海苔採りに俊太郎の言ったように、誠三は自分に合ってるような気がしていた。
海苔採りは、十一月中頃に始まり寒い一、二月の最盛期を迎え、三月に終わった。俊太郎の勧めで始めた海苔採りも、ひと冬は思ったより早く過ぎてしまった。
「諏訪に帰らないで、大森で海苔屋の一年間を見たらどうかね。何でもやってもらうがね」
田中の親父は、誠三の仕事ぶりを見てて海苔屋にしたかったようだ。
「いいことだよ。誠さん、何でもやってみたら、脇の仕事も必要だよ」
俊太郎も賛成し、海苔採りはないが一年を通して田中の家を手伝うことになった。
三月に海苔採りが終わると海苔屋の一日は、普通になったというより不規則になってしまった。毎日決まった仕事があるわけでなく、海苔場の片付け、舟の修理、その他道具の整理をしながら、他の海苔屋の手伝いもした。農作業も、海に出て漁業、貝、カニ漁もした。六月は一年でいちばんのんびりしていたが、夏の声を聞くと次の年の海苔業の準備も慌ただしく始まり、夜なべする事も多くなった。
海苔採りもなく早起きもなく、身体も気分も楽になったせいもあり、誠三は仕事が終わると遊びに走った。それでも海苔への興味を失うことは無く、海苔の勉強会にも参加させてもらった。海苔で何か作れないものかと、海苔細工を思いついたのもその頃だったが、頭の中の遊びで終っていた。
その夏、海苔屋博史の妹ふみ子と知り合って、一緒になったのは二年目の海苔仕事を終えた六月だった。
田中の親父は、博史の家に移ることを許してくれたが、冬の短い間だけの海苔業に、博史の家に誠三を受け入れる気持ちのゆとりがなかった。すべての海苔屋が楽というわけではなかった。誠三は田中の家で、ふみ子は博史の家で海苔の仕事を続けた。
長男の夏夫が生まれ、博史にも長男公平が生まれた頃、博史が体を悪くして海での仕事ができなくなった。その時に誠三は、どんなことがあっても博史の家に行く、と田中の親父に、博史に話をしてほしい、と頼み込んだ。
「うん、わかった。それがええ、博史も内心喜ぶはずだ。ただ、恩義を感じさせるな」
「おやっさん、誠さんなら大丈夫ですよ」
俊太郎も当然だというように賛成してくれて、初めてふみ子と一緒に海苔仕事をする毎日になった。
大森で幾度かの海苔採りの季節が終わった頃、時局は激しさを増し誠三にも召集がきた。俊太郎もこの冬田中の家には来ていなかった。諏訪でも大森でも若者、中年までもが召集され時節に、大森の海苔業の規模は縮小の一途をたどりだした。
博史は、海苔採りができなくて苦しくも海苔屋を、大森の海苔業を田中の家に助けられながらも守り続けようとしていた。
数年の歳月を経て誠三が無事戻ってきたのは、初冬海苔採りの始まる頃、文子、夏夫と初めて見る娘の弘子がいた。弘子は誠三を見るなり、博史の後ろに隠れてしまった。
誠三が着いた時、海苔作業場では主人の博史、諏訪の三郎、山形の文吉の男衆三人が海苔作りを、奥さんと女衆数人が海苔刻み、下働き等をしていた。
海苔屋の一日は、二、三時頃から前日に採った生海苔で板海苔を作ることから始まった。
海苔作りの前準備は、採ったままの生海苔の不揃いな大きさでは、きれいな板海苔ができず、生海苔を四〜六o位にまで切り刻むことだった。細かくなり過ぎても、いい海苔はできなかった。
厚い欅の木のたたき台で、女衆が幅広の海苔切り庖丁を両手に持って、叩き落とすように海苔刻みをしていた。深夜に聞こえるトントン、トントンというのは、この包丁の音だった。
「おれが切るよ」
海苔切りは、主に女衆の仕事だったが、誠三は包丁を受け取った。
隣では、チョッパーという海苔刻み機、上部の直径十aほどの丸い口から生海苔を入れると、横から細かくなって出てくるひき肉を作るような機械で海苔切りをしていた。ほとんどの海苔屋がチョッパーで海苔切りするようになっていたが、博史の家では、ある一定量庖丁で刻むことにしていた。
男衆三人が、窓ガラスの壁際に並んだ海苔付け台に向かって海苔作りをしていた。
それぞれ海苔付け台の横には四斗樽が置いてあり、樽八分目ほどの井戸水に約三gの刻んだ生海苔を溶かして、約百〜百二十枚の板海苔を作るのだった。
海苔付けは、弁当箱ほどの重箱で、樽から水と一緒に生海苔をすくって、葦で編んだ海苔簀(縦三十七a、横三十一a)の上に置いた木枠(縦二十一a、横十九a)の中に流し込んで、水が簀の下に流れ落ちる間に、すばやく木枠を揺らすと、生海苔が枠内に一様に拡がり海苔簀の上にきれいな板海苔が残った。
でき上がった海苔の水分が自然に抜けるように簀下しの部屋で、海苔簀を少し斜めにしてに立て掛けて置いた。海苔には粘りの成分が含まれていて流れることはなかった。
海苔付けには熟練が必要で、熟練者で一時間に二五〇枚くらいの板海苔を作った。
〜続く〜
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