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十牛訓ー23 <9−返本還源>C/5 

2018年09月19日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<十牛訓>

 まあ いくら坊主になっても悟りが開けてないんだからねえ 文覚のほうは。<散るや白波 恋無情>と 歌にことよせて諸国を遍歴して歩いてる西行の方が いくらかましだった。禅の悟りが開けたとはいえませんが 悟りが開けたら坊主なんかにならなかったかもしれないけどね。
 それで 文覚はたしか奈良あたりの寺の住持になっていたという。なにしろ あの時代の武士だから 鬼か蛇みたいな気持をもっていたに違いない。あの時分ていうのは 武士にあらざれば人間にあらずっていうんで 無礼があればすぐたたっ斬っちまう。それだからもう 坊主になっても傲慢無礼。
 しかも一方において 自分はもう仏道に入って悟りが開けたとばかり 思っていたか 思っていなかったか とにかくはた目には 俺は悟りを開いた人間だというふうな様子見せなきゃならない。だから 一生懸命その様子を見せてたんでしょう。
 けど 一つ困ったことがある。それは何だというと 文覚画廊かに出るとすぐ裏山から毎日毎日 その時分にはいたんでしょう。日本猿の大きいのがでてきて 寺の庭の大きな楠の上にのっかっちゃあ 事もあろうにアカンベしたり 尻たたいてみせたりしやがる。追えども 叱れども 相手が猿だからどうにもしょうがない。
 その昔 平清盛が この世にままならざるものは一つもないが 日輪だけはどうすることもできないと 日没をにらみ返して 返せなかったって あれと同じようなことを言いやがった 文覚もね。この世にままならないものは一つもないが あの猿だけはどうにもしょうがねえ。こやつ 射殺してくれようと思って 常に廊下に大和流の半弓を備えていて 姿を見たらビューッとやるんだけども 当たらないんだよ。猿も早いんだから こんちきしょう ほんとうにもう しゃくにさわってどうにもしょうがねえ。
 そのうち考えてみると もう一つしゃくにさわるものがあるという。何だと自分で考えてみると 西行法師。
 ちきしょうめ ほんとうに 俺とおなじように女でしくじりやがって。ただ あいつのほうがうめえことしやがった。俺はいっぺんも目的を達しねえで相手を殺しちゃった。あんちきしょうはたとえいっぺんであろうとも 目的を達しやがったんだ。おまけに相手が なにしろ皇后にもたとえられる偉い女。あいつのほうがよっぽど間がいい。それに方々へ行って 歌の神様のように大名や豪族からもてなしを受けやがって ちきしょう。回国して もしもこの寺に来やがったら 首をひねりつぶしてやるから。
 それから酒に酔うてえと すぐ弟子坊主を集めちゃあ <西行 来たらばな 生首を俺がひねり取ってやるところをおまえたち見物させるから 楽しみにしてろ>。そのぐらいのことをしかねないような坊主に思われていた。
 そこへ ものの拍子というものは妙なもので その年 まもなく暮れにかかろうとするとき 西行が 六波羅からの通知によると 奈良のほとりを行脚して おたくの寺にも寄るという通知がきた。


〜続く〜



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