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シニアの放課後

十牛訓ー18 <7−忘牛存人>@/1 

2018年09月12日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<十牛訓>

さあ第七図は <忘牛存人>
 この絵を見て いちばん最初に皆さんが気がつくことは 今まで牧童と一緒にいた牛がいないでしょう。子供が一人だ。
これはどういうわけか。考えてごらん。第6図では 求める人と求められた牛とがまったく一体となって いわゆる無心無我の境に没入した。ところがさらに 修業が進んで気がついてみると 今まで求めていた牛 いわゆる本然の自性 自我の本質 その中に存在する本心というものが 他のところにあるんではなく また他のものではなく 自分自身であったということを暗示したのが第7図なんです。
 牛がいなくなって 人のみがいるというので 忘牛存人と書いてありますが もう少し詳しく言おう。
 修養に一生懸命努める人が今まで熱心に求めていた真実の人生が 今まさにその人と一体になった。チャーンと寝ても起きても一体となっているんだから もうそれがあるもないもないんです。あるもないもない。一体になっちゃってるんだ。したがって 合えrてことさらに幸福な人生を考える必要がないんです。そのまんまなんだから。必要がないもん。あるんだからねえ。もうそんなものは思わない かんがえない 忘れちまってるというのがこの忘牛存人。
 禅のほうに こういう詩がある。

  よしあしとわたる人こそはかなけれ ひとつなにわのあしと知らずや

 これも古い詩に別にこういうのがある。

  忘れじと覚えしうちは忘れけり 忘れて後が忘れざりけり

 おもしろい詩だよ これ。<忘れじと覚えしうちは忘れけり>―忘れまい 忘れまいと覚えているうちは忘れちまうというんだ。忘れてるうちは忘れないっていうんだ。そうだろう。
 <あなた 何ていうの?>と言われたら
 <あ 俺 中村天風だ>
 そういうふうに聞かれるまでは忘れてるもの。俺は中村天風 俺は中村天風 俺は中村天風と思ってなくたって。
 だから この忘牛存人の境地というのは 心の中に何もない 純一無雑の境涯なんです。修行の極致には入りし人には 常に胸のなかに一物のこだわりがない。毀誉褒貶 さらに意図せず 束縛もなけりゃ 苦しみもなきゃ 楽しみもない。生死を超越している。怒(ど)する人もなければ 怒せられる人もなく ああ じつに<晴れてよし 曇りてよし 富士の山>となる。私がしょっちゅうしにかいてあげるのはここの境涯なんですよ。難しい言葉でいえば 自他不二 さらに物我一如 彼我一体の境地。
 わからない?天地にあるものはただ一つ。どうだい?ただ一つなんだ。自分だけただ一人あるっていうんだ。己を忘れて物を見て 物を忘れて道を見る。
 一休禅師はうまいこと言った。

  あら楽や虚空を家と住みなして 須弥を枕に一人寝やせん

 考えてごらん 今言ったことがわからなかったら。
 一切の現象はみんな因縁から発生する。因縁なくて発生するものないもん。つまり 原因あって結果だろう。因果応報の法則だ。
 たとえば 我々の体だってそうだろう。真理からいえば やはり因縁から生まれたものだ。科学的にいったら ブランク定数hから生まれてる。hから生まれたから みんなhが好きなんだよ。笑いごとじゃないよ。下がなくてできたやつは一人もいやしないんだよ。もとがあってできたのが因縁の具象と こう言うんだ。
 それを考えないで ただ一個の形ある物質的な肉体が自分だと思うからいけないんだよ。もうすでにそれが いわゆる仏教の言葉でいえば<無明> 心身統一法でいえば雑念 妄念だ。だから まず物を見るのに自分を忘れて見ろ。それから 自分を忘れて物を見たら 今度は物を忘れて道を見なさい―<忘己観物 忘物観道>。
 気がついてごらん。自分を空の方から見てごらん。天地ことごとく自己ならぬがなしとなる。それが物我一如 一列一体の心境。
 だから私は あなた方を見ても みんな自分だと思ってるんだ。あなた方はそっちから見て 私は私 天風さんは天風さん―こうだもん。牛を忘れて人だけいる。その気持にならなきゃ駄目だぜ。
 よく考えなさい。あなた方と私 男と男 女と男といっても 同じ心だったら一つのものだ。違う? 心身統一法の教えはそこにあるんです。

 十牛訓<忘牛存人> 終

〜続く〜



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