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幕府 元寇 禅宗文化(2) 

2018年09月09日 外部ブログ記事
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幕府 元寇 禅宗文化

源平合戦の原因はひたすらに後白河院の身勝手
 ☆源平合戦といいますが、当時の勢カバランスでは、源氏は、大きい勢力でなかった
 (源氏が強かったら、平清盛の頼朝・義経への処置が甘すぎる)
 ☆後白河院は無能で我がままな暗君で、平清盛の補佐でなんとか過ごしていた
 ☆源頼政は、後白河院の皇子以仁王と組んでクーデターを試みましたが失敗
 ☆政治の中心はあくまでも後白河院
 ☆頼朝は東大寺大仏の開眠供養で上洛し後白河院と対峙する
 ☆後白河院の死後に頼朝は、征夷大将軍に任じられた
 ☆頼朝の事故死で京都と鎌倉の折り合いが、宙ぶらりで鎌倉の混乱が深まる
 ☆幕府を廃して、朝廷に権限を戻せるとみた後鳥羽院が起こしたのが承久の変
 (無謀だという人が多いのですが、そうは言い切れません)
 ☆北条泰時が「御成敗式目」を制定して、幕府の安定に成功した
大人数があちこちで集団自決した鎌倉幕府の幕引き
 ☆北条家では、元寇の時代を乗り切った時宗が34歳で没した
 ☆北条家との私的な家臣のとの権力闘争で、幕府の弱体化が進む
 ☆両統迭立でなんとか機能していた皇位継承
 (後深草院系の持明院統(北朝)、亀山院系の人覚寺統(南朝))
 ☆北朝の花園天皇が12歳で即位し、皇太子に9歳上の後醍醐天皇がなる
 *後醍醐天皇は、「正中の変」を起こし失敗する
 *後醍醐天皇は、隠岐に流された
 *後醍醐天皇は隠岐から脱出し各地の武士に討幕を呼びかけた
 ☆幕府は源氏の最有力者足利尊氏を派遣しましたが、尊氏は寝返りを宣言
 ☆鎌倉は、新田義貞の攻撃で、鎌倉幕府の関係者870名が自決した
 *足利尊氏は、天皇が送った追討軍の新田義貞を箱根で討つ
 *足利尊氏は、光厳院を担ぎ、楠木正成を神戸の湊川で敗死させた
 ☆後醍醐天皇は、比叡山に逃れ、北朝の光明天皇が即位しました
 (後醍醐天皇は、大和の吉野に逃れ「南北朝時代」が始まった)
足利尊氏は栃木県に行ったことはない
 ☆尊氏は、褒賞の気前のよさや人情味で独特の人気を持っていた
 ☆尊氏を栃木県人と信じている人が多いが、尊氏は足を出み人いれたこともない
 ☆後小松天皇は、6歳で即位した、吉野では、後亀山天皇が即位しました
 ☆その後、明治天皇の裁断で南朝が正統であるとした
明の皇帝独裁に影響された足利義満
 ☆南北朝合一の前後20年ほどの時代は、「日本国王」を名乗った足利義満の絶頂期
 ☆義満は、将軍職を息子の義持に譲り、出家し法皇と同格の扱いを受ける
 ☆義満は金閣を建て、後小松天皇の行幸を迎えました
 ☆義満が死んだとき、朝廷は大上法皇の称号を与えようとした
 ☆義満の姿勢を苦々しく思っていた義持は辞退した
 ☆義持は義満の死後は、現実主義者で義満が政治を行い、明との勘合貿易もやった
 ☆アルコール依存症だった義量の死後は義持がしばく政務をみました
 ☆「黒衣の宰相」らの主導で石清水八幡宮の神前で後継者を決めるくじ引きも行われた時代
 (義持の弟・青連院義円が選ばれて6代将軍義教となる)
 ☆義教は独裁権力を振るいだし、「万人恐怖」の政治を行う
信長より先に上洛した大内義興と三好長慶
 ☆幕府は、将軍義政の弟の政知を鎌倉公方として送り込む
 (抵抗を受け、政知は鎌倉に入れず伊豆に留まったまま)
 ☆義政は幕政への熱意を持たず、東山第での隠居生活に早く移ることを望む
 ☆弟の義視を還俗させて後継者としましたが、日野富子が義尚を産んだ
 ☆義視は細川勝元を、日野富子は山名宗全を後ろ盾として後継者争いに備えた
 ☆斯波、畠山両氏の相続争いもあり応仁の乱が勃発
 ☆京都では、応仁の乱の戦乱からの復興が進んで、商工業の町・下京では祗園祭が復活
 ☆三好三人衆は義維の子の義栄を将軍に擁して、松永久秀や三好義継と対立した
 ☆義栄は、将軍宣下を受けますが、義輝の弟・義昭が岐阜の織田信長に擁されて上洛
 ☆義昭が室町幕府最後の将軍になる
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出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
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私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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出典、『最強の日本史』


幕府 元寇 禅宗文化(ネットより画像引用)

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