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十牛訓ー8 <2−見跡>@ 

2018年08月29日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<十牛訓>

 さて そこで第二図だ。第二図は<見跡>。
 牛をたずね求めて 山 また山と探しまわって歩いた牧童が どうやらやっとのことで とある谷川のほとりで牛の足跡を発見したところだ。
 これにも詩がついている。
 
 こころざしふかきみ山のかいありて しおりのあとを見るぞうれしき

 ああ 喜んじゃった。喜んだものの また一方 人知れない不安で胸をどきつかせながら その足跡をたどりたどって行ったら牛がつかまるかなと 今まさに道を急ぎ行くところなんだ。
 禅のほうでいうと 仏祖の説いた―釈迦が説いたと言ってもいいが 釈迦は ほんというと 説いたか説かないかわからない。弟子のこしらえたものらしんだ。―経典や語録を見出したという意味だな。<あっ ここにこんないい本がある><あっ こんないい教えが書いてある>ということを見いだしたときと同じなんだ。 
 心身統一法のほうでいうと 私の著書とか あるいは私の講習会があることを人から聞かされて <ああ そうか そんなことを話してくれる人があるのか>というようなことを感じたり <この本を読んでごらん>と言われて読んで <ああ いい本だな>と思ったときが この<見跡> 跡を見たということなんだ。
 仏教では この見跡をどうして仏祖の経典や語録にたとえたかというと 元来 文字や言語というものは 本物じゃないんだからね。言語や文字は 本物をただわからせるための方便として存在してるものなんだ。これをお説教のほうじゃ 経典や語録というものは 空に輝いている月をさしてる指だよと言うんです。指は月じゃないんだから。指はただ <あれ 見ろや>といって 月を見せようがための方便だというんです。
 もっとこれを現代的な言葉で言うと 人が思想や観念をつくるためには その元を必要とする。その元が経典や語録だと こうなってるわけです。
 <常に人知に即して顧みながら これを自分のものにせよ>というのが 全のいちばん肝心な教えです。ですから仏教の中でも いちばん禅は具体的で 現実的なものなんだ。
 禅以外の仏教のように あるんだか ないんだかわからないようなことを ただ観念的にうなずいていけというのとは少し違うんだね。
 もっとも お念仏さえ唱えてりゃ救われるぞと 法然さんが言ったのは その自分の人間はだよ 物を考えようとする理性が発達してない民族なんだから。そらまあ今の時代の人間がその時代の人間を見たら 人間とは思わないだろうね。あの時代の人間なんてものは つまり早い話が 幼稚園の生徒よりも まだものがわからなかったといってもいいかなあ。とにかく <南無阿弥陀仏を唱えたてまつれば そのまそのままに成仏いたし 極楽浄土にいかれるぞと説かれる。ありがたいことだ 南無阿弥陀仏 なんまんだぶ なんまんだぶ>といっていて救われるんだから 考えてみると 今の人間よりは始末がよかったに違いないんだけども。
 それじゃ承知ができなくなって 新しく考えだされたのが禅なんだからね。そんな なんだか雲をつかむようなことで安心しろったって 安心できるもんか。もっと現実と取り組んで 現実で自分の心のなかを洗っていけというのが つまり自力宗の禅というもので お念仏の方は他力宗だ。

〜続く〜



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