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北軽井沢 虹の街 爽やかな風

健康で生きられるからには 

2018年08月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し





人生50年が80年になり、100年になった。誰が決めたか知らないけれど、今、盛んに言われている100年は、一人一人にとってそれぞれ意味が違う。そこに到達せずに逝った人のほうが圧倒的に多いのだが、これから先、そこに到達する人も増えてくるだろうという程度のことだろう。
幸い、私は現在健康で生き続けている。ありがたいことだ。これからも努力をしながらでも健康に生きられるなら、社会の一員として働き、大いに楽しみたいと思っている。
 
2016年12月に書いた超短編小説「崖物語」を最近、何人かの人に読んでもらった。
3ページで完結する超短編小説は、ブログにも掲載したので読まれた方もいるが、先日、スウィートグラスの常連家族に読んでもらったら、重大なミスプリントがあることが判明した。こういう小説を楽しみの一つにしようと思っているので、今後はそんなミスをしないようにと考えている。ブログ記事のリバイバルとしてアップしてみます。
間違いを探してください。
 
超短編小説をSUDDEN FICTION(サドン・フィクション)というらしい。
この物語が、それに該当するかはわからないが・・・・
 
崖物語
 
2016年12月の半ば、岩村吾郎は北軽井沢にある今では日本一人気があるといわれている北軽井沢スウィートグラスというキャンプ場を訪れていた。ここは標高1100mの厳寒の地だ。南に活火山浅間山が迫り、その裾野に広がる5万坪のキャンプ場の東側に長くのびる森はオシギッパの森と呼ばれている。その森の中を流れる地蔵川は浅間山から流れ出る水を運び、絶えず豊富な水量を保っていた。地蔵川の南端にはコンクリートの堰堤があり、スウィートグラスではこれをジェロニモの滝と名付けていた。
 
「カミーユ・ピサロの世界だ」岩村吾郎はつぶやいた。
目の前の光景は、雪こそ降っていないがフランス印象派の最も中心的存在であった巨匠カミーユ・ピサロの「エラニーの冬朝、日光の効果」の絵を思い出させる光景だった。
「雪に生える朝日」の別名もあるこの絵は、画家が晩年移り住んだパリ郊外エラニー・シュル・エプトの牧場の冬の朝の風景で、このエラニー・シュル・エプトの風景は1890年代のピサロにとって最も主要な画題の一つでもある。寒々しい冬景色の中で輝くように朝陽の光を反射する雪の大胆ながら繊細な描写、薄桃色に色付く木々の枝や青色と黄色の折り重なる陰影の表現は秀逸の出来栄えを示しており、カミーユ・ピサロらしい単純で明確な構図の中に描き込まれた、この冬の瞬間的な美の世界は、観る者に対して冬季独特の寒乾質な空気感や、その中で微かに感じる朝陽の温もりをも感じさせる。
 
地蔵川を渡ると果てしなく広がる大草原がありその手前に迫る木々は、まさにエラニー・シュル・エプトの牧場を思い起こさせる。遠く彼方に見える山々の稜線は独特の形で、それはまるで夢の世界のようだ。高崎方面からこの山があるために浅間山が見えないことから名付けられた浅間隠し山は、その中でもひときわ高くそびえている。その上に広がる青空に白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。もしもある朝、雪が降っていて東側の山々の稜線の上を朝陽が通過すれば、カミーユ・ピサロの絵にそっくりの場所が現れるに違いない。
岩村吾郎は、10年前そのことには気が付かなかった。
 
「パパ、来て、来て、・・川が流れてるよ」
「早く、早く・・この川、ジェロニモの滝から来てるの?」
「パパ、ここにお家を建てたらいいのにね」
小学校5年生の息子・啓助は甲高い声で叫び、はしゃいでいた。
10年前、初めてここを訪れたとき、息子の啓助は10歳だった。帰路、8台の車が絡む大事故に巻き込まれ妻と息子をあっという間に失い自分だけ命拾いをした岩村吾郎は、48歳になっていた。ここに立つと息子の声がまだはっきりと聞こえてくる。
太陽は西に傾き数時間のうちに沈んでいくだろう。崖の下を流れる川を見つめていた岩村吾郎は、思わずこみあげてくる思いに空を見上げた。目からこぼれそうな雫をこらえていたのだ。「ココニ、オウチヲタテタライイノニネ」啓助の顔は輝いていた。
振り向くとそこには新しい施設が建設中だった。スウィートグラスの新しい施設「ぎっぱのみみずくキャビン」がつくられている。
 
岩村吾郎は縁あってある女性と再婚が決まり、踏ん切りをつけようとスウィートグラスにやってきたのだった。その日は12月とは思えない暖かい日だった。心を鎮めて歩き始めた吾郎は前から近づいてきたキャンプ場のスタッフと思われる男に声をかけられた。
「こんにちは」・・帽子を冠っていたのでよくわからないが少し年配のスタッフは、水玉のエプロン姿で明るい笑顔で近づいてきた。
 
その笑顔に引き込まれるように岩本五郎も明るく挨拶を交わし、尋ねられるままに今からジェロニモの滝へ行ってみるつもりだと話した。するとそのスタッフもちょうど休み時間なので滝の写真を撮りに行くところだという。二人は自然に並んで歩き始めていた。聞きもしないのに老スタッフは勝手に話し始め、このスウィートグラスで最年長の73歳だという。この地に移住してきて9年目と話す老スタッフはやけに明るい。ついつい話に誘われ、岩本五郎もここに来たいきさつをいつの間にか話し始めていた。そして岩本五郎がすっかりすべてを話してしまったことに気付いたとき、二人はジェロニモの滝の前に来ていた。丸太のベンチに腰掛けた二人は思わず顔を見合わせてほほ笑んでいた。
 
老スタッフには、ちょうど同じ年頃の息子がいた。高校3年生の孫もいる。岩本五郎の息子も生きていればもう大学生だ。老スタッフはそれからゆっくりと話し始めた。自分の夢も含めて、噂のある新しい企画について、このキャンプ場の理念についてポツリポツリと話していくうちに老スタッフはまるでそれが自分の仕事であるかのように話を進めていた。現在出来上がっているツリーハウスから次のツリーハウスまで、木の上をアップダウンしながら進んでいく回廊は、将来このジェロニモの滝まで延長され、さらにそこから奥にウオーキングロードが森の中深く続いていき、浅間山の麓まで行けるようになるという計画は、ジェロニモの滝の奥に続く森を見つめながら岩本五郎の想像力をかき立てていく。老スタッフはさらに話し続ける。岩本五郎が息子の声を聞いたあの場所には、以前から「崖キャビン」が何度も計画され、没になっていたという。岩本五郎の耳には「ココニオウチヲタテタライイノニネ」という啓助の声が再び聞こえてきた。
 
老スタッフの話はいつの間にか彼自身の話になり、老いは衰えることではなくて強くなり美しくなることだと力を込めて話し、人生の目的は、燃え尽きることにある、燃え尽きれば成功した生命であり、くすぶれば失敗の生命という。
いつしか二人は固く握手して別れた。お互いの連絡先をスマホに登録し、岩本五郎はもし崖キャビンができたら連絡してくれるよう頼んだ。
老スタッフは「きっと、そのうちできるから」とほほ笑んだ。
来年生まれてくる子供が男の子でも女の子でも、崖キャビンにつれてきたいという岩本五郎の心はすっかり吹っ切れていた。音を立てて勢いよく流れるジェロニモの滝に爽やかな風が通り過ぎていった。
 
 
 

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