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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧と敵討ち 2 

2018年08月05日 外部ブログ記事
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追う者も虚無僧に
仇を追う側も虚無僧となった話が『続近世奇人伝』にあります。                                   この話も、奇しくも会津藩主加藤家に関係があります。
加藤嘉明の子明成は横暴で、民は疲弊し、家臣の争い事が絶えず、家老堀主水が                           会津を出奔して幕府に明成の罪状を訴え出る事件があり、1643年改易となります。                           代わって会津藩主となったのが家光の異母弟保科正之です。                                    尚加藤明成の正室は保科正之の叔母です。
その明成の姉の婿が松下重綱。その兄弟と思われる松下源太左衛門忠綱が、主家の改易のため                              浪人して江戸に行った時に、同じく加藤明成の家臣だった早川八之丞に討たれた。
殺害された理由は、早川八之丞が、藪久太郎の倅八助をめぐって大崎長三郎と争い、                         これを殺害して?出奔した。こちらも男色がらみの殺生。江戸時代の初めまでは男色は公然の慣習でした。
藩主の加藤明成は、早川八之丞の父四郎兵衛に切腹を命じた。これを知った八之丞は、父が切腹となったのは               大崎長三郎の縁戚である重臣の松下忠綱が殿に、四郎兵衛の処罰を進言したからと思い込んで恨みだった。                加藤家は改易となり、松下忠綱も浪人していて、再仕官の途を求めて江戸に赴いた際に殺害したものである。               時に寛文9年(1669)3月21日。
松下忠綱には二人の子がいた。長男「助三郎豊長」は12歳。次男の「南谷」は7歳。                         松下家は元は加藤家の重臣であっただけに、二人の家来もいた。
早川八之丞が京都明暗寺に入り虚無僧になっているとの情報を得た松下助三郎豊長は、                        従者二人を伴って京都に行き、浪人宮原伝蔵に剣術を習う。宮原伝蔵もまた親を討たれ、                        その仇が病死して本意を遂げられずにいたことから、早川助三郎に同情し、みずから                          明暗寺に入って虚無僧となり、早川八之丞とも親しく言葉を交わす仲となった。
そして八之丞に「難波に行こう」と誘い、助三郎にも連絡して、芥川宿(現高槻市)で                          助三郎と家来二人と合流し、八之丞を討ち果たした。時に1671年。助三郎は14歳。
この話も芝居や小説になり、いろいろ粉飾されています。直木三十五も「芥川虚無僧敵討」として                    発表しています。高槻市の芥川町には「敵討ちの場所」として説明看板がありますが、そこには                     虚無僧になった話しは書かれていません。また、「助三郎が虚無僧になって」という話しも                           あるようですが、13、4歳では、虚無僧にはなれないでしょう。
以上2件とも事実とすれば、江戸時代の初期でしたので、虚無僧になりやすかったのでしょう。
江戸時代の後半となると、虚無僧寺ごとの縄張りがあり、虚無僧の通行を禁止する藩もあり、                       虚無僧姿での敵探しは難しくなったようです。
1824年に父の敵を討った小田原藩足軽浅田鉄蔵、そして1863年に敵を討った土佐藩の徒士(かち)                    広井磐之助の二人は、「当初虚無僧となったが、諸制約があって虚無僧姿では回れず、脱宗した」と                   供述しています。というわけで、虚無僧の敵討の話はあるようで無い。以上の4件が確認されただけです。
敵討のために虚無僧となった話は大かたが小説や芝居の類です。その代表格が歌舞伎の「助六」と                         「仮名手本忠臣蔵」でしょう。また吉川英治の「鳴門秘帖」などが虚無僧を隠密にしてしまったのです。
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