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平成の虚無僧一路の日記

広島原爆は予告されていた 3 

2018年07月29日 外部ブログ記事
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私の叔父牧原源一郎は、終戦時国会議員で小日山運輸大臣の秘書官だった。小日山直登氏は、戦局不利となった昭和20年5月、東条英機の後を受けて組閣された鈴木貫太郎内閣で、満鉄総裁から運輸大臣に登用された。小日山氏は会津出身で、大臣就任とともに、同郷の代議士牧原源一郎を秘書官とした。その牧原源一郎が『小日山直登を偲ぶ』という本を遺している。それによると、「小日山運輸大臣は、秘書官(牧原源一郎)を伴って、九州各県の慰問のため、7/18 東京を発ち、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と1週間かけて巡回。帰途、広島に立ち寄った。西部司令官の畑俊六元帥、広島県知事の高野源進氏もともに同郷人(会津出身)であったから、その夜、食事を共にした。この晩も多数の敵機が上空を飛んでいたが、一発の焼夷弾も落とさない。市民は「広島には爆撃は無し」と考えていたようにも見受けられた。ところが、その日から10日たった8月6日、原子爆弾が投下され、高野知事の夫人も死亡された。畑元帥と高野知事は幸いに難を免れた」。と記されている。小日山大臣と私の叔父が広島に泊まったのは、7月27日のようだ。そして、小日山大臣が帰京するとすぐ、ソ連に戦争終結の仲介を頼むべく、極秘工作が行われた。ソ連駐在の日本大使は、小日山氏の義兄「佐藤尚武」であり、小日山氏の娘婿「湯川盛夫」が、近衛公の先発としてソ連に派遣されることになった。しかし、戦局不利で出発できぬ間に、原爆投下、ソ連の参戦となってしまった。
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