メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

末法思想と浄土信仰 

2018年07月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



空也上人は念仏を「聞くもの」から「自分で唱えるもの」にした

末法思想の世で流行った浄土信仰
 ☆釈迦の入滅後千年後に「末法(世の中が乱れる)」の世に入ると信じられていた
 ☆武士階級の台頭が貴族社会をおびやかしはじめた
 ☆天災・飢饉、内乱が続き、末法の世が現実のもののように映った
 (比叡山の僧兵は市中で乱暴狼藉をはたらくありさま)
 ☆退廃的な世相を反映して浄土教が貴族社会に流行した
 ☆最澄の弟子円仁により、中国で流行していた念仏がもたらせる
 ☆天台宗の源信は『往生要集』を著した
『往生要集』
 ☆極楽浄土の様子、地獄の有様が描かれている
 ☆『往生要集』は、阿弥陀如来のいる極楽浄土に往生できるかを解説した「往生ガイド」
 ☆臨終にあたっては阿弥陀仏を心に思い描き「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える
 ☆浄土教は、阿弥陀仏が極楽浄土に導いてくれると説いた
 ☆不安におののく人々の心を捉えた
極楽浄土の世界を原出させる
 ☆藤原道真の子頼道は、浄土を現出させるべく財を投じ宇治平等院鳳凰堂創立した
 ☆平泉を拠点とした奥州藤原氏三代は、中尊寺金色堂(岩手県)を創立した
 (金で輝く極楽浄土をイメージした堂のなかにおさまる)
 ☆貴族のなかには、往生要集のマニュアルどおりに死の床につく人もいた
 (西の方角に阿弥陀如来が迎えにくる仏画(来迎図)を置く)
 (糸で阿弥陀如来の手を自らと結び喜びのなかで死を迎える人)
大衆に念仏を説いた空也上人
 ☆醍醐天皇の皇子と伝えられる空也上人
 ☆諸国をまわり、仏の教えを説くばかりではなく民衆の救済のための事業までも行う
 ☆空也は比叡山にも学び受戒もしている
 (上流階級向けである当時の仏教界に疑問をもちつづけた)
 ☆空也は念仏を唱えて日本中を回り、踊念仏をはじめた
 (念仏は、庶民にとっては僧侶が唱えるもので、自らが唱えるものではなかった)
 ☆空也は自分で唱えてこそ、救われるのだと説いた
 ☆人々は空也を「市の聖」と呼んで慕っていました
 ☆空也の布教以降、仏教は民衆にも浸透していくこととなります
 ☆浄土教を浄土宗として新たに開いた法然、浄土真宗を開いた親鸞にその理念を引き継ぐ
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『手にとるように宗教がわかる本』


空也上人は念仏を「聞くもの」から「自分で唱えるもの」にした
(『手にとるように宗教がわかる本』記事より画像引用)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ