メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

慶喜

北の関ヶ原の戦い(長谷城の戦い) 

2018年07月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



関ヶ原の戦い同じ日、直江兼続の軍が山形の最上義光の長谷堂城を攻撃

 ☆兼続の大軍が大挙関東に乱入すれば、関ヶ原の勝敗はくつがえっていた可能性があった
 (兼続&石田三成が連携し家康を挟み撃ちにする戦略)
 ☆長谷堂城を攻撃は、兼続が家康に挑んだ戦いの始まり)

北の関ヶ原「長谷堂城の戦い」
 ☆名将・直江兼続率いる上杉景勝軍が、最上義光の治める山形城へ向けて進軍
 (最上義光の山形城の重要な支城の一つ長谷堂城)
 ☆直江兼続は、長谷堂城を望む台地に上杉軍の本陣を置く
 ☆直江兼続の10倍以上の兵力でも長谷堂城は落ちず
 ☆関ヶ原では、石田三成たち西軍が大敗したことが上杉軍に知らされる
 ☆西軍側だった上杉軍は撤退を余儀なくされる
 ☆最上軍が、伊達政宗の協力を得て直江兼続たちを猛追
 ☆上杉側の猛将・前田慶次郎の奮闘で、上杉軍は見事に撤退を果たした
 ☆関ヶ原の戦いの真っ最中東でも東西に分かれ戦っていた
 (東軍側最上義光・伊達政宗、西軍側上杉景勝・直江兼続たち)
直江兼続と上杉景勝との関係
 ☆兼続は、上杉景勝の側近直江信綱が暗殺された時、その妻と再婚し直江家の婿養子となる
 ☆兼続は、謙信死後に起きた上杉家の跡継ぎ争い・御館の乱では景勝に味方する
 (景勝の近習として活動)
 ☆兼続は、景勝の側近中の側近として内政や外交を一手に引き受ける
 ☆主君はもちろん、豊臣秀吉からも信頼されていた
豊臣秀吉の死後
 ☆景勝と兼続が新たな城の建設を模索すると、徳川家康は謀反行為だと詰問する
 ☆兼続は反論の書状を書き記し、上杉征伐のきっかけとなったと言われる「直江状」
 ☆関ヶ原の戦いが起こると、兼続は東軍勢力の伊達・最上軍と戦う
関ヶ原の戦いの後、兼続上杉家存続の道を模索
 ☆大坂冬の陣・夏の陣では徳川軍として参加し、武功を挙げる
 ☆兼続の政治工作により、米沢30万石への減封で収めた
 ☆景勝とともに江戸に上洛するものの病を得て亡くなる
直江兼続の「愛の兜」の由来
 ☆兼続が兜に愛の文字を用いた説は二つある
 *上杉謙信が戦勝祈願をした愛宕神社にあやかり「愛」の一文字を拝借した説
 *「愛染明王」から拝借したという説(兼続は軍神として愛染明王を信仰)
 (上杉謙信は、毘沙門天から一字を拝借して旗印としたことを真似た)
 ☆「愛」の一文字は、上杉家への忠誠と戦に対する兼続の覚悟の表現
 ☆謙信の死後も上杉家が発展したのは、兼続の大きな貢献があった
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、TIMESTAGEブログ、ヒストリーランド、BSNHK「英雄達の選択」












北の関ヶ原の戦い(BSNHK「英雄達の選択」テレビ画面より画像引用)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ