メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

大杉・野枝の「フリー・ラブ」 

2018年07月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



中日新聞夕刊に連載中の瀬戸内寂聴の『この道』。伊藤野枝(のえ)を中心に、大杉栄とその妻「掘保子」。大杉の愛人の「神近市子」との複雑な恋愛関係が綴られている。伊藤野枝は福岡から上京して 上野高等女学校にはいり、親が決めていた婚約者を捨てて、英語教師の辻潤と結婚。「平塚らいてう」に傾倒し、女性文学集団「青鞜社」で働き、与謝野晶子・岡本かの子らと親交を深めた。やがて大杉栄と熱愛し、身を寄せる。大杉には 既に妻の「堀保子」と愛人の「神近市子」がいた。この複雑な恋愛関係を公表し、世間からは非難の的となる。その辺のことを「瀬戸内寂聴」は詳しく、小説仕立てで書いている。大杉が野枝に宛てた手紙など、大部分が残されていることも驚きである。大杉は「自由恋愛の3カ条」を掲げる。一、互いに経済的に自立する。二、同居することを前提にしない。三、互いの性的自由を保証する。今でこそ「渡辺淳一」が「一夫一婦制は不自然」とのたまわって多くのファンを得ているが、大正デモクラシーとは言え、まだまだ「倫理」のやかましい時代だった。世間は、大杉や野枝に非難轟々だった。それもあってか、大正12年(1923年)9月1日の「関東大震災」から間もない16日、大杉栄と野枝は 大杉の甥・橘宗一(6歳)とともに 憲兵に連れ去られ、その日のうちに扼殺された(甘粕事件)。遺体は、畳表で巻かれ古井戸に投げ捨てられた。野枝28歳。死因鑑定書によれば、二人共 肋骨が何本も折られていたという。首謀者は「甘粕(正彦)大尉」とされるが、真相は不明。野枝に捨てられた辻潤こそあわれ。彼は虚無僧となって生涯を閉じた。死因は餓死。ジャジャジャジャーン。私もか。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ