たそがれ爺のよちよち川柳

言志四録(二)言志後録/85-99 

2011年02月17日 外部ブログ記事
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---------------------------------------------------------------------- 15年以上前に買った本なのですがずっと「ツン読」でした。 何故もっと早く読まなかったと今頃後悔してます。---------------------------------------------------------------------- リタイアした年寄りがボツボツと更新しております。またのお越しを……。m(__)m----------------------------------------------------------------------言志四録(二)言志後録/100−114 ----------------------------------------------------------------------99.増さず減らさず古往(こおう)今来(こんらい)、生生(せいせい)息(や)まず。精気(せいき)は物(もの)を為(な)すも、天地(てんち)未(いま)だ嘗(かつ)て一物(ぶつ)をも増(ま)さず。游魂(ゆこん)は変(へん)を為(な)すも、天地(てんち)未(いま)だ嘗(かつ)て一気(き)をも減(げん)ぜず。○精気・游魂:易経、?辞上篇に「精気物を為(つく)り、游魂変を為(な)す」とある。精気は陰陽。陰陽相合して物を造る。游魂は精気離散し、魂気遊散することで、生物が死滅するをいう。【付記】 本条は不増不減不生不滅を説くもので仏教の「般若心経(はんにゃしんぎょう)」の精神と同じことをいっているものと思われる。----------98.心の安否を問え人(ひと)は皆(みな)身(み)の安否(あんぴ)を問(と)うことを知(し)れども、而(しか)も心(こころ)の安否(あんぴ)を問(と)うことを知(し)らず。宜(よろ)しく自(みずか)ら問(と)うべし。「能(よ)く闇室(あんしつ)を欺(あざむ)かざるか否(いな)か。能(よ)く衾影(きんえい)に愧(は)じざるか否(いな)か。能(よ)く安穏(あんのん)快楽(かいらく)を得(う)るか否(いな)か」と。時時(じじ)是(か)くの如(ごと)くすれば心(こころ)便(すなわ)ち放(はな)れず。(または放(ほしいまま)ならず。)○安否:やすらかなるかどうか。○闇室云々:「程子曰く、学は闇室を欺かざるに始まる」とある。どんな処にいてもやましい所がない。○衾影云々:宋史?元定の伝に「独り行きて影に愧(は)じず、独り寝て衾(ふすま)に愧じず」とある。人が見ていないからといって悪事をするようなことはない。衾は夜具、影は影法師。○放:放縦。【付記】 大学、伝六章に「君子は必ずその独りを慎しむ」とある。これもよく知られている言葉である。 無門関第十二則に次のようなことがある。昔、中国の瑞巌(ずいがん)禅師は毎日自分で「主人公」と呼び、自分で「ハイ」と返事をする。そして「目をさましていなさいよ」、「ハイ、ハイ」。そして又、「人にだまされるなよ」、「ハイ、ハイ」と答える。このようにして自分の心を検しておられたということである。 ここで「主人公」とは自分の真我という御本体であって、悟らない人には真似が出来ないないことである。 もう一つ、正法(しょうほう)眼蔵(げんぞう)随聞記(ずいもんき)の開巻劈頭(へきとう)に、「示に云(いわ)く、はずべくんば、明眼(みょうがん)の人をはずべし」とある。この意味は、明察力をそなえた人にみつめられているよう振舞うべきである(真継伸彦訳)ということである。 つまり、信仰心のある人であれば「常に神さま(または仏さま)にみつめられているように振舞うべきである」ということであろう。ということはいつでも緊張していなければならないということではない。思う存分天明に従って、愉快に、世のため人のために働けば、きっと神様は喜んで下さるものと私は信じている。----------97.怒りや欲を押えるは養生の道忿(いかり)熾(さかん)なれば則(すなわち)ち気(き)暴(あら)く、欲(よく)多(おお)ければ則(すなわ)ち気(き)耗(もう)す。忿(いかり)を懲(こ)らし欲(よく)を塞(ふさ)ぐは、養生(ようじょう)に於(おい)ても亦(また)得(う)。【付記】 さきに述べたように「心(こころ)平(たいらか)なれば 寿(いのちなが)し」 白楽天を常にお忘れなきように。----------96.君子と小人君子(くんし)は自(みずか)ら慊(けん)し、小人(しょうじん)は則(すなわ)ち自(みずか)ら欺(あざむ)く。君子(くんし)は自(みずか)ら彊(つと)め、小人(しょうじん)は則(すなわ)ち自(みずか)ら棄(す)つ。上達(じょうたつ)と下達(かたつ)とは一つの自字(じじ)に落在(らくざい)す。○慊:?あきたらず、不満足に思う、?あきる、?きらう、ここでは?。○自彊:言志後録2条参照。 ○落在:おちつく。【付記】 これに関して参考までに記しておこう。 入学試験で、「出来なかったという人は合格する。出来たという人は落第する」という人がある。どうもこの判別法は確からしい。 また、絵や書の展覧会に出品した人が「どうも今回のは不満足だった。あすこをああすればよかった」という人のは大抵パスする。「今度は上出来だ、完璧だ」という人のは、不合格になることが多い。 以上二件本文と多少関係があるのではなかろうか。----------95.赤子は好悪を知る赤子(せきし)は先(ま)ず好悪(こうお)を知(し)る。好(こう)は愛辺(あいへん)に属(ぞく)す。仁(じん)なり。悪(あく)は羞辺(しゅうへん)に属(ぞく)す。義(ぎ)なり。心(こころ)の霊光(れいこう)は、自然(しぜん)に是(か)くの如(ごと)し。【付記】 本文の記事は孟子の四端によったものである。四端とは(言志録225条)  「惻隠(そくいん)(気の毒に思う)の心は仁の端なり  羞悪(しゅうお)(恥ずかしいと思う)の心は義の端なり  辞譲(じじょう)(ゆずり合う)の心は礼の端なり  是非(ぜひ)(良しあしを分ける)の心は智の端なり」これら四つは人の心の基本となるものである。----------94.天をもって得るものと人をもって得るもの天(てん)を以(もっ)て得(う)る者(もの)は固(かた)く、人(ひと)を以(もっ)て得(う)る者(もの)は脆(もろ)し。【付記】 実力によって得たものは確かなものであるが、人為的に得たものはくずれ易い。次の話も参考になろう。(加藤咄堂『修養大講座』第二巻96頁) 昔、江戸に或(あ)る俄(にわ)か分限(ぶげん)の商人がおって、何んとかして自分の名を世間に広めたいと思い、神社仏閣の手拭(てぬぐい)や提灯(ちょうちん)にも、その名を書かしたが、さほど人が知ってくれない。そこで、一寸(ちょっと)工夫をして、当時名代の俳優瀬川菊之丞−−これは路考(ろこう)という有名な俳優であった−−に頼んで自分の名前を字崩(くず)しに染めた浴衣(ゆかた)を着て、舞台で演技をして貰うことを工夫した。その図案も出来、その浴衣も染め上って、舞台に着て出て貰ったところが、何しろ有名な俳優のことであるから非常な評判で、その浴衣地がドンドン売れ出したので、その人はこれで自分の名前も広まると非常に喜んでおったが、世の中ではこれを『瀬川染』『路考染』とは云うが、誰一人、その人の名を知る者がなかったので、折角の名案も其の功なく、非常に失望したという話である。自分に実力なくして、徒(いたず)らに名を得んとしたものは大抵この類に陥ると思われるのである。----------93.寝食を慎しむは孝能(よ)く寝食(しんしょく)を慎(つつ)しむは孝(こう)なり。【付記】 孝経、開宗明義(小学、内篇明倫にもある)に孔子曰く、「身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げて、以って父母を顕(あら)わすは孝の終りなり」とある。 本文はこの前半を、簡単に述べたものと思われる。----------92.気付かない恩沢人(ひと)は嬰孩(えいがい)より老耋(ろうてつ)に至(いた)るまで、恒(つね)に徳(とく)を陰闇(いんあん)の中(うち)に受(う)けて、而(しか)も自(みずか)ら知(し)らず。是(こ)れ何物(なにもの)ぞや。被褥(ひじょく)、枕席(ちんせき)是(こ)れなり。一先輩(せんぱい)有(あ)り。甚(はなは)だ被褥(ひじょく)を敬(けい)し、必(かなら)ず手(て)に之(これ)を展収(てんしゅう)して、之(これ)を臧獲(ぞうかく)に委(い)せざりき。其(そ)の心(こころ)を用(もち)うる亦(また)云(ここ)に厚(あつ)し。○嬰孩:みどりご、幼児。○老耋:おいぼれ。○展収:のべたり、たたんだり。○臧獲:下男と下女。○云:ここにと読む。----------91.箴と鍼の効用箴(しん)は鍼(しん)なり。心(こころ)の鍼(はり)なり。非幾(ひき)纔(わずか)に動(うご)けば、即便(すなわ)ち之(これ)を箴(しん)すれば可(か)なり。増長(ぞうちょう)するに至(いた)りては、則(すなわ)ち効(こう)を得(う)ること或(あるい)は少(すくな)し。余(よ)刺鍼(ししん)を好(この)む。気体(きたい)稍(やや)清快(せいかい)ならざるに値(あ)えば、輒(すなわ)ち早(はや)く心下(しんか)を刺(さ)すこと十数鍼(すうしん)なれば、則(すなわ)ち病(やまい)未(いま)だ成(な)らずして潰(かい)す。因(よ)って此(こ)の理(り)を悟(さと)る。○箴:竹のはり。いましめ。○鍼:金のはり。うちばり。○非幾:不善のきざし。悪心の兆。○心下:胸の下。【付記】 さて、諸君、諸君は如何なる聖賢の箴言を用意してありや。常日頃の心掛けが大切な所以(ゆえん)である。----------90.静と動静(せい)を釈(しゃく)して不動(ふどう)と為(な)すは、訓詁(くんこ)なり。静(せい)何(なん)ぞ曾(かつ)て動(うご)かざらむ。動(どう)を釈(しゃく)して不静(ふせい)と為(な)すは、訓詁(くんこ)なり。動(どう)何(なん)ぞ曾(かつ)て静(せい)ならざむ。【付記】 静と動は相対的なことで、決して相反対する意味にとるべきではない。  静かさや 水に椿の 落つる音これは静中動ありの状であり、  鳥鳴いて 山中更に 幽(しず)かなりとは動中静を現している。(加藤咄堂『修養大講座』第二巻93頁)----------89.謙と敬謙(けん)は徳(とく)の柄(へい)なり。敬(けい)は徳(とく)の輿(よ)なり。以(もっ)て師(し)を行(や)り邑国(ゆうこく)を征(せい)すべし。○柄・輿:柄は器物のえ。輿は車。いずれも大切な物の意。○行^師:師は軍隊。軍隊をもって攻めること。○征?邑国?:その邑を征すとは、己の身を省み修めるという意。----------88.敬は勇気を生ず敬(けい)は勇気(ゆうき)を生(しょう)ず。【付記】 孟子は「勇は義によって生ず」といっている。これも尤(もっとも)なことである。----------87.仮己と真己仮己(けこ)を去(さ)って真己(しんこ)を成(な)し、客我(きゃくが)を逐(お)うて主我(しゅが)を存(そん)す。是(これ)を其(そ)の身(み)に獲(とら)われずという。【付記】 本文の説く所はまったく「禅」と一致するものである。即ち人間一人一人の真 自己は清浄無垢な自己で、これはまさしく「仏心」そのものである。キリスト教ではこれを「内在の神」という。ところが、どういうわけか、この仏心(真我)は奥の奥に隠されていて、容易に姿を現わさないというのである。この真我をおし隠して、わがもの顔に振舞っているのが仮己であり客我である。換言すれば仮己とは虚栄に囚われた己であり、金銭の奴隷であり、煩悩の塊である。 真の自己は隠されているとはいうものの、ちらりほらり姿を現わすものらしい。 臨済禅師上堂して曰く、「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」と。ここでいう真人が真の自己である。 どうしたら真の自己が前面に顔を出すか。どうだ、どうだ。----------86.順境と逆境順境(じゅんきょう)は春(はる)の如(ごと)し。出遊(しゅつゆう)して花を観(み)る。逆境(ぎゃっきょう)は冬(ふゆ)の如(ごと)し。堅(かた)く臥(ふ)して雪(ゆき)を看(み)る。春(はる)は固(も)と楽(たの)しむ可(べ)し。冬(ふゆ)も亦(また)悪(あ)しからず。【付記】 酔古堂剣掃(けんそう) 霊の巻に 「名を成すは毎(つね)に窮苦(きゅうく)の日に在り、事を敗(やぶ)るは多くは、志を得るの時に因(よ)る」とある。 逆境は次に伸びるための準備をする時期であり、順境にあっては、心のゆるみを押えて失敗しないように慎重に事に当らなければならない。----------85.艮(ごん)は君子の象(しょう)艮(ごん)を篤実(とくじつ)輝光(きこう)と為(な)す。君子(くんし)の象(しょう)なり。物(もの)の実(じつ)有(あ)る者(もの)は、遠(とお)くして益(ますます)輝(かがや)き、近(ちか)ければ則(すなわ)ち之(これ)に狎(な)れて、美(び)なるを覚(おぼ)えざるなり。月(つき)に面(めん)して月(つき)を看(み)るは、月(つき)に背(そむ)いて月(つき)を観(み)るに如(し)かず。花(はな)に近(ちか)づいて花(はな)を看(み)るは、花(はな)に遠(とお)ざかりて花(はな)を瞻(み)るに如(し)かず。○艮(ごん):易(えき)の卦(か)の名。○看(かん)・観(かん)・瞻(せん):看るは手をかざして眺め入る意で観と同じに用いられる。看花。観はまた見物する意あり、観花。瞻は仰ぎみること。また瞻花などとも用いられる。下方から上方の花をみること。---------- 言志四録(二)言志後録/71−84 ----------------------------------------------------------------------

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