たそがれ爺のよちよち川柳

言志四録(二)言志後録/100-114 

2011年03月04日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


---------------------------------------------------------------------- 15年以上前に買った本なのですがずっと「ツン読」でした。 何故もっと早く読まなかったと今頃後悔してます。---------------------------------------------------------------------- リタイアした年寄りがボツボツと更新しております。またのお越しを……。m(__)m----------------------------------------------------------------------言志四録(二)言志後録/115−122 ----------------------------------------------------------------------114.「大学」は総(すべ)ての情の説明大学(だいがく)は、誠意(せいい)に好悪(こうお)を説(と)くことより、平天下(へいてんか)に?矩(けっく)を説(と)くに至(いた)る。中間(ちゅうかん)も亦(また)忿?(ふんち)四件(けん)、親愛(しんあい)五件(けん)、考弟慈(こうていじ)三件(けん)、都(す)べて情(じょう)の上(うえ)に於(おい)て理会(りかい)す。○?矩:?は度(はか)る、矩はのり、したがって、基準となるべき道。己の心をもって人の心をはかることで、つまり「恕」の意。○忿?:怒りが外に現れたものが忿(ふん)で、内にとどこおるものが?(ち)である。はげしい怒り。----------113.天地は情の世界古往(こおう)今来(こんらい)、一塊(かい)の堪輿(かんよ)は、皆(みな)情(じょう)の世界(せかい)なり。感応(かんおう)の幾(き)此(ここ)に在(あ)れども、而(しか)も公私(こうし)有(あ)り。政(まつりごと)を為(な)す者(もの)宜(よろ)しく先(ま)ず其(そ)の公情(こうじょう)を持(じ)して以(もっ)て物(もの)を待(ま)ち、人(ひと)をして各(おのおの)其(そ)の公情(こうじょう)を得(え)しむべきのみ。然(しか)れども私情(しじょう)も亦(また)恕(じょ)として達(たっ)せしめ碍(さわり)無(な)かるべき者(もの)有(あ)り。事(こと)に臨(のぞ)み其(そ)の軽重(けいちょう)を酌(く)みて可(か)なり。○堪輿:堪は天の道、輿は地の道。従って天地、世界。----------112.不苟(ふこう)と不愧(ふき)不苟(ふこう)の字(じ)、以(もっ)て過(か)を寡(すくな)くす可(べ)し。不愧(ふき)の字(じ)、以(もっ)て咎(きゅう)に遠(とおざ)かるべし。○不苟:かりそめにしない。おろそかにしない。○不愧:良心に恥じない。公明正大の心持ち。【付記】 「これにつけて思い起こすことは、昔、大岡越前守が寺社奉行であった時に、幕府の於て諸芸の達人を召していろいろな役に任命されたことがあった。その頃算術の名人と言われた野田文三という人がおり、これに勘定役を仰付けるというので、越前守に其の吟味を命ぜられた。越前守は野田文三を招き寄せて、『其の方は算術に達する由である。ついては余が望みの割算を一つ目の前でやって貰いたい』 と言われるから、さぞ入り組んだ算数のことでも出されるかと思っていると。『百を二つに割れば、いくつになるか』 こう問われた。そこで『それでは一つ算盤(そろばん)を拝借致したい』と云い、算盤を借り受けて、『何んと仰せ出されます。百のものを二つに割れと仰せられますか。さらば』 と言うて、算盤に百とおいて、目安に二をおいて、二一天作の五と算盤をはじいて、『五十ずつになります』と答えた。越前守はこれを見て手を打って、 『さすがに算術の名人である。如何に容易なことであっても、これを軽はずみにせぬ。今日のこの行いで、公儀大事の勘定役をも務まる者』 と褒められたという話がある。その小事を忽(ゆるが)せにせざるところに、その人の器量を見ることが出来るのである」 (加藤咄堂『修養大講座』第二巻116頁) これは昔の話であるが、現在の金融機関ではダブル・チェックをするのが常道になっている。----------111.和と介寛懐(かんかい)にして俗情(ぞくじょう)に忤(さから)わざるは和(わ)なり。立脚(りっきゃく)して、俗情(ぞくじょう)に墜(お)ちざるは介(かい)なり。○介:守りの堅いこと。【付記】 我々は社会の中で協同生活をしているわけであるから、和合して行かなければならないが、時には自己の信念を堅持して、社会の進運(しんうん)に資する必要もあるということである。----------110.修養の工夫「羊(ひつじ)を牽(ひ)きて悔(く)い亡(ほろ)ぶ。」操存(そうそん)の工夫(くふう)当(まさ)に此(か)くの如(ごと)くすべし。○牽羊云々:易経、夬(かい)の卦(か)にあり。○操存:心を操り守る。----------109.百年、再生の我なし百年(ひゃくねん)、再生(さいせい)の我(われ)無(な)し。其(そ)れ曠度(こうと)すべけんや。○曠度:曠は空、度はわたる意。空しく過ごす。【付記】 菜根譚に本文と同行異曲のものがあるので引用しておこう。 「天地に万古あるも、この身は再び得られず。人生ただ百年、この日最も過ぎ易し。幸にその間に生まるる者は、有生(うせい)の楽(この世に生をうけた楽)を知らざるべからず。また処生(しょせい)の憂(うれい)を懐(いだ)かざる可(べ)からず」(107条) 最後の文句は「人生を空しく過ごすことに、恐れをもたねばならない」ということである。 序(ついで)に仏教の生命観を述べておこう。「ブッダは、ある時、道を歩いておられて、地べたの土をつまみ、爪の上にのせ、お供の阿難(アーナンダ)に示され『阿難よ、この爪の上の土と地べたの土とどちらが多いと思うか』といわれた。阿難は『勿論、地べたの土が多うございます』と答えた。するとブッダは、『そうだね。ところでこの世の中に命をいただいて生まれて来るものは地べたの土ほどあるね。しかし、人間に生まれて来る者はこの爪の上の土ほだしかないんだ。人間には滅多に生まれないんだ。命というものを大切にしなければならん』と教えられた。」 法句経に歌う。 「人と生まる こと難し  命あること あり難し  法をきくこと また難し  仏に会うこと あり難し」  山田無文『真理の言葉』より----------108.老人の心得老人(ろうじん)は衆(しゅう)の観望(かんぼう)して矜式(きょうしょく)する所(ところ)なり。其(そ)の言動(げんどう)は当(まさ)に益(ますます)端(たん)なるべく、志気(しき)は当(まさ)に益(ますます)壮(そう)なるべし。尤(もっと)も宜(よろしく)しく衆(しゅう)を容(い)れ才(さい)を育(いく)するを以(もっ)て志(こころざし)と為(な)すべし。今(いま)の老者(ろうしゃ)、或(あるい)は漫(みだり)に年老(ねんろう)を唱(とな)え、頽棄(たいき)に甘(あま)んずる者(もの)有(あ)り。或(あるい)は猶(な)お少年(しょうねん)の伎倆(ぎりょう)を為(な)す者(もの)有(あ)り。皆(みな)非(ひ)なり。○観望:仰ぎ見る。○矜式:矜は敬、式は法。○端:端正。○志気:こころざし。○頽棄:くずれすたる。○伎倆:腕前、はたらき。----------107.常に目前の事をなせ人(ひと)の事(こと)を做(な)すは、目前(もくぜん)に粗脱(そだつ)多(おお)く、徒(いたず)らに来日(らいじつ)の事(こと)を思量(しりょう)す。譬(たと)えば行旅(こうりょ)の人(ひと)の齷齪(あくそく)として前程(ぜんてい)を思量(しりょう)するが如(ごと)し。太(はなは)だ不可(ふか)なり。人(ひと)は須(すべか)らく先(ま)ず当下(とうか)を料理(りょうり)すべし。居処(きょしょ)恭(うやうや)しく、事(こと)を執(と)るに敬(けい)、言(げん)は忠信(ちゅうしん)、行(こう)は篤敬(とくけい)なるより、寝(い)ぬるに尸(し)せず、居(お)るに容(かたち)づくらず、一寝(しん)一食(しょく)、造次(ぞうじ)?沛(てんぱい)に至(いた)るが如(ごと)きも、亦(また)皆(みな)当下(とうか)の事(こと)なり。其(そ)の当下(とうか)を料理(りょうり)し、恰好(かっこう)を得(う)る処(ところ)、則(すなわ)ち過去(かこ)将来(しょうらい)を并(あわ)せて、亦(また)自(おのずか)ら恰好(かっこう)を得(え)んのみ。○粗脱:手ぬかり。○思量:おもいはかる。○料理:はかりおさめる。処理。○当下:当面の事。○居処:家に居て仕事をしていない時。○言忠信:忠は心と口が違わないこと。信は言と行の違わないこと。全体で言葉がまことである。○行篤敬:篤はうわついていないこと。敬は過失のないようにつつしみ深いこと。全体で行がまことである。○寝ぬる尸せず:尸は屍。死人のような寝方はしない。○容づくらず:儀式ばらない。○造次?沛:造次は倉卒(にわか)。?沛はつまづき倒れる。全体でわずかの間。論語里仁第四に「君子は終食の間も仁にたがうことなし。造次にもここにおいてし、?沛にも必ずここにおいてす」とある。○恰好:適当。----------106.心は二つあるに非ず心(こころ)は二つ有(あ)るに非(あら)ず。其(そ)の本体(ほんたい)を語(かた)れば、則(すなわ)ち之(こ)れを道心(どうしん)と謂(い)う。性(せい)の体(たい)なり。其(そ)の体?(たいく)に渉(わた)るよりすれば、則(すなわ)ち之(こ)れを人心(じんしん)と謂(い)う。情(じょう)の発(はっ)するなり。故(ゆえ)に道心(どうしん)能(よ)く体?(たいく)を主宰(しゅさい)すれば、則(すなわ)ち形色(けいしき)其(そ)の天性(てんせい)の本然(ほんぜん)を失(うしな)わず。唯(た)だ聖人(せいじn)能(よ)く精(せい)一の功(こう)を用(もち)いて、以(もっ)て其(そ)の形(かたち)を践(ふ)むのみ。然(しか)れども此(か)の功(こう)を知覚(ちかく)するも、亦(また)則(すなわ)ち道心(どうしん)の霊光(れいこう)にして、二つに非(あら)ざるなり。○形色云々:孟子、尽心上篇に「孟子曰く、形色は天性なり。惟聖人にして、然る後に以って形を践むばし」とある。形体、顔色ともに天賦のものであるから天性という。○精一の功:純粋な心の働き。○形を践む:目は目の働きを十分に発揮し、耳は耳の働きを十分に発揮するなど、それぞれの性能を害わずに正しく十分に発揮すること。○道心・人心:81条語義参照。 ----------105.人心とは人(ひと)は当(まさ)に自(みずか)ら我(わ)れに?(み)有(あ)ることを認(みと)むべし。?(み)は何物(なにもの)たるか。耳(みみ)は天性(てんせい)の聡(そう)有(あ)り。目(め)は天性(てんせい)の明(めい)有(あ)り。鼻口(びこう)は天性(てんせい)の臭味(しゅうみ)有(あ)り。手足(しゅそく)は天性(てんせい)の運動(うんどう)有(あ)り。此(こ)の物(もの)や、各(おのおの)一に専(もっぱ)らにして、而(しか)も自(みずか)ら主(しゅ)たる能(あたわ)わざれば、則(すなわ)ち其(そ)の物(もの)と感応(かんおう)して、物(もの)の外(そと)より至(いた)るや、或(あるい)は耳目(じもく)を塗(と)し、鼻口(びこう)を膠(こう)し、其(そ)の牽引(けんいん)する所(ところ)と為(な)りて、以(もっ)て其(そ)の天性(てんせい)を拗(よう)する有(あ)り。故(ゆえ)に人(ひと)の善(ぜん)を為(な)すは、固(もと)より是(こ)れ自然(しぜん)の天性(てんせい)にして、悪(あく)を為(な)すも亦(また)是(こ)れ拗後(ようご)の天性(てんせい)なり。其(そ)の体?(たいく)に渉(わた)り、是(か)くの如(ごと)く危(あやう)きを以(もっ)て、呼(よ)びて人心(じんしん)と做(な)す。○拗後之天性:耳目鼻口などが外物の誘惑をうけ、その本性が傷つけられるをいう。○人心:我欲。(81条参照) ----------104.道心とは人(ひと)は当(まさ)に自ら我(わ)が?(み)に主宰(しゅさい)有(あ)るを認(みと)むべし。主宰(しゅさい)は何物(なにもの)たるか。物(もの)は何(いず)れの処(ところ)にか在(あ)る。中(ちゅう)を主(しゅ)として、一を守(まも)り、能(よ)く流行(りゅうこう)し、能(よ)く変化(へんか)し、宇宙(うちゅう)を以(もっ)て体(たい)と為(な)し、鬼神(きしん)を以(もっ)て迹(あと)と為(な)し、霊霊(れいれい)明明(めいめい)、至微(しび)にして顕(あら)わるるもの、呼(よ)びて道心(どうしん)と做(な)す。○主宰:支配するもの。荀子正名篇に「心は道の主宰なり」とある。○中を云々:中正の道を主とし、その事のみを守る。○迹:行動、鬼神のような働き。○霊々明々:霊妙にして明らか。○道心:良心。81条参照。 ----------103.中和ならば人我一体心(こころ)に中和(ちゅうわ)を得(う)れば、即(すなわ)ち人情(にんじょう)皆(みな)順(したが)い、心(こころ)に中和(ちゅうわ)を失(うしな)えば、即(すなわ)ち人情(にんじょう)皆(みな)乖(そむ)く。感応(かんおう)の機(き)は我(われ)に在(あ)り。故(ゆえ)に人我(じんが)一体(たい)、情理(じょうり)通透(つうとう)して、以(もっ)て政(まつりごと)に従(したが)う可(べ)し。○中和:偏らず、節度に適(かな)った無上の道。中庸第一章に「中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して天地位し、万物育す。【付記】 ややもすれば、名に走り利に趨(おもむ)くようではよい政治家とはいわれない。政治家は宜しく本文の真意を知ってもらいたい。----------102.活動と活学道(みち)は固(も)とより活(い)き、学(がく)も亦(また)活(い)く。儒者(じゅしゃ)の経解(けいかい)に於(お)けるは、釘牢(ていろう)繩縛(じょうばく)して、道(みち)と学(がく)とを并(あわ)せて幾(ほと)んど死(し)せしむ。須(すべか)らくその釘(てい)を抜(ぬ)き、その縛(ばく)を解(と)き、蘇回(そかい)するを得(え)しむべくして可(か)なり。○経解:経書の解釈。○釘牢:釘でかたく打ちつける。○蘇回:よみがえらす。----------101.誠と敬三則 その三聖人(せいじん)は事(こと)を幾先(きせん)に見(み)る。事(こと)の未(いま)だ発(はっ)せざるよりして言(い)えば、之(これ)を先天(せんてん)と謂(い)い、幾(き)の己(すで)に動(うご)くよりして言(い)えば、之(これ)を後天(こうてん)と謂(い)う。中和(ちゅうわ)も一なり。誠敬(せいけい)も一なり。----------100.誠と敬三則 その二為(な)す無(な)くして為(な)す有(あ)る、之(これ)を誠(せい)と謂(い)い、為(な)す有(あ)りて為(な)す無(な)き、之(これ)を敬(けい)と謂(い)う。 (なお、後禄60条 誠と敬三則 その一参照 )【付記】 例えば、日頃ただ修養につとめて悠々自適している人が、一度(ひとたび)事に当れば立派な仕事をしてしまって大功を立てる場合、これ誠である。 また、平生から大いに社会のために尽くそうと心掛けて、小さい事をも忽(ゆるが)せにせず努力し、特に目立った跡(あと)かたがあるわけではないが遂にその目的を達するような場合、これが敬である。---------- 言志四録(二)言志後録/85−99 ----------------------------------------------------------------------

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