たそがれ爺のよちよち川柳

言志四録(二)言志後録/115-122 

2011年03月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


---------------------------------------------------------------------- 15年以上前に買った本なのですがずっと「ツン読」でした。 何故もっと早く読まなかったと今頃後悔してます。---------------------------------------------------------------------- リタイアした年寄りがボツボツと更新しております。またのお越しを……。m(__)m----------------------------------------------------------------------言志四録(二)言志後録/130− ----------------------------------------------------------------------122.名利(めいり)は悪いものか?名利(めいり)は、固(も)と悪(あ)しき物(もの)に非(あら)ず。但(た)だ己私(こし)の累(わずら)わす所(ところ)と為(な)る可(べ)からず。之(これ)を愛好(あいこう)すと雖(いえど)も、亦(また)自(おのずか)ら恰好(かっこう)の中(ちゅう)を得(う)る処(ところ)有(あ)り。即(すなわ)ち天理(てんり)の当然(とうぜん)なり。凡(およ)そ人情(にんじょう)は愛好(あいこう)す可(べ)き者(もの)何(なん)ぞ限(かぎ)らむ。而(しか)れども其(そ)の間(かん)にも亦(また)小大(しょうだい)有(あ)り。軽重(けいちょう)有(あ)り。能(よ)く之(こ)れを権衡(けんこう)して、斯(ここ)に其(そ)の中(ちゅう)を得(う)るは、即(すなわ)ち天理(てんり)の在(あ)る所(ところ)なり。人(ひと)只(た)だ己私(こし)の累(るい)を為(な)すを怕(おそ)るるのみ。名利(めいり)豈(あ)に果(はた)して人(ひと)を累(るい)せんや。○天理:天の道理、自然に定まって人為の加わらないすじみち。○権衡:権はおもり、衡ははかりの皿、転じてはかり。釣合。【付記】 名誉や利益は人の力量や努力に応じて、自然に与えられものが一番よいのであろう。これを無理に欲しがる処に問題が起るということのようだ。---------- 121.学の工夫虚羸(きょえい)の人(ひと)は、常(つね)に補剤(ほざい)を服(ふく)せり。俄(にわか)に其(そ)の効(こう)を覚(おぼ)えざれども、而(しか)も久(ひさ)しく服(ふく)すれば自(おのずか)ら効(こう)有(あ)り。此(こ)の学(がく)の工夫(くふう)も亦(また)猶(な)お是(か)くのごとし。【付記】 かって慶応義塾大学の塾長であった小泉信三博士は、ある本の中でこう述べている。 「本を読んでものを考えた人と、まったく本を読まない人とは明かに顔が違う。読書家は、精神を集中して細字をみるため、その目に特殊な光を生じ、これが読書家の顔をつくる。しかし、ひとり眼光に限らない。偉大な作家、思想家の大著を潜心熟読することは人を別心たらしめる。これが人の顔にあらわれるのは当然であろう。」 顔は心を現わすという。嘘はつけないものである。----------120.修養の工夫艮背(ごんはい)の工夫(くふう)は、神(しん)其(そ)の室(しつ)を守(まも)る。即(すなわ)ち敬(けい)なり。即(すなわ)ち仁(じん)なり。起居(ききょ)食息(しそく)、放過(ほうか)すべからず。空(くう)に懸(か)け影(かげ)を捕(とら)うるの心学(しんがく)に非(あら)ず。○艮背の工夫:精神統一をなし、思うことその位を出でず、忘我の境に入るをいう。○空に懸け影を捕うる:取りとめもないことの形容。灰心滅智、内容のないものをいう。----------119.学問は自分のためにすべし幣(へい)を矯(た)むるの説(せつ)は、必(かなら)ず復(ま)た幣(へい)を生ず。只(た)だ当(まさ)に学(がく)は己(おの)れの為(ため)にするを知(し)るべし。学(がく)は己(おの)れの為(ため)にするを知(し)る者(もの)は、必(かなら)ず之(これ)を己(おの)れに求(もと)む。是(こ)れ心学(しんがく)なり。力(ちから)を得(う)る処(ところ)に至(いた)れば、則(すなわ)ち宜(よろ)しく其(そ)の自得(じとく)する所(ところ)に任(にん)ずべし。小異(しょうい)有(あ)りと雖(いえど)も、大同(だいどう)を害(がい)せず。○為^己云々:論語、憲問篇に「子曰く、古の学者は己のためにし、今の学者は人のためにす」とある。○心学:心を修める学。○小異:少しの差異。○大同:小差を問わずして混同する。【付記】 「古の学者は己の為めにする」ということは自己の修養のためにするという意味である。また「今の学者は人のためにする」ということは自分が学問をして、それを人に見せて、よい職につくためにするということである。 吉田松陰も講孟余話で、これを二、三ヶ所に引用し、「今の学者」の態度を非難している。一例を挙げると、離婁上第二十三章にこういっている。 「凡(およ)そ学をなすの要は、己の為めにするにあり。己の為めにするは君子の学なり。人の為めにするは小人の学なり。而して己が為めにするの学は、人の師となるを好むに非らずして自ら人の師となるべし。人の為めにするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に曰く、記問(きもん)の学はもって師となるに足らずと。是なり。」 大いに考えさせられる所である。----------118.外見を衒(てら)う勿(なか)れ門面(もんめん)を装(よそお)うこと勿(なか)れ。家●(かとう)を陳(つら)ぬること勿(なか)れ。招牌(しょうはい)を掲(かか)ぐること勿(なか)れ。他物(たぶつ)を仮(か)りて以(もっ)て誇衒(こげん)すること勿(なか)れ。書(しょ)して以(もっ)て自(みずか)ら警(いまし)む。○門面:門構。家の表面のかざり。○家●:家具家宝。(●はイ+當)は当で装飾の意。○招牌:看板。○誇衒:ほこりてらう。みせびらかす。【付記】 これに関してこういう話がある。 「昔、或る人が茶室を建築して、多くの友人を招いて、建築がどうの、この間取りがどうの、茶道具がどうの、掛物がどうのと、いろいろと自慢をした。成程自慢するだけあって、どれも、これも結構尽くしであるから主人は得々として、 『どうです。何一つ非難せらるるものはございますまい』 というと、その中の一人が、 『ただ一つ結構でないものがある』 と申すから、その主人は何だ何だと聞きますが、友人は黙って帰って行った。其の帰り道で他の友人が『何が悪いのだ』ときくと、 『主人が悪い』といったという話がある。反省すべきことであると思う。」 (加藤咄堂『修養大講座』第2巻120頁)----------117.人情と天理誣(し)う可(べ)からざる者(もの)は人情(にんじょう)にして、欺(あざむ)く可(べ)からざる者(もの)は天理(てんり)なり。人(ひと)皆(みな)之(これ)を知(し)る。蓋(けだ)し知(し)れども而(しか)も未(いま)だ知(し)らず。----------116.人は好む所を話す人(ひと)は多(おお)く己(おの)れの好(この)む所(ところ)を話(はな)して、己(おの)れの悪(にく)む所(ところ)を話(はな)さず。君子(くんし)は善(ぜん)を好(この)む、故(ゆえ)に毎(つね)に人(ひと)の善(ぜん)を称(しょう)し、悪(あく)を悪(にく)む、故(ゆえ)に肯(あ)えて人(ひと)の悪(あく)を称(しょう)せず。小人(しょうじん)は之(これ)に反(はん)す。○君子云々:論語、顔淵篇に「子曰く、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人はこれに反す」とある。この意味は「立派な人は他人の美点を助け、悪には味方しない。俗物はこの反対だ。」。----------115.聖人の情聖人(せいじん)は万物(ばんぶつ)に順(したが)いて情(じょう)無(な)し。情(じょう)無(な)きに非(あら)ざるなり。万物(ばんぶつ)の情(じょう)を以(もっ)て情(じょう)と為(な)すのみ。---------- 言志四録(二)言志後録/100−114 ----------------------------------------------------------------------

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ