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シニアの放課後

<心に成功の炎を>54 

2018年06月08日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 聞いてしまうと<なんだ そんなことか>と思うようなことが じつは多くの人に忘れられて 考えられていない。それがために あたら人間として生まれて 磨けば磨くほど その力 働きが 自分でも驚くほどすぐれたものになりうる心を与えられていながら おおむね百人に九十九人までは いわゆる宝の持ち腐れで 何にもその力と働きとを磨きあげないで死んじまっているんであります。
 平々凡々として ただこの世の中に生まれて何年かの間生きて 健康難や運命難で苦しんでただけで その一生の全ページが終わってしまったという人が 古今往来 数知れずあるんじゃないでしょうか。
 この認識力を理想どおりに養成していくと そりゃまったく自分でも思いもよらない 俗にいう奇跡に近いような心の働きが出てくることが往々にしてあるんです。そうすると
 <ああ こんな考え方やこんな分別が私の心でできたのは不思議だなあ>と思うくらい 改めて自分の心に対して尊敬の念をはらいたくなるような気持ちを感ずるときが必ずきます。
 私は口癖のように言ってますが 人間は誰でも 男でも女でも 学問があろうと なかろうと みんな一様に一角の人間になれるようにできているんです。にもかかわらず とかくすぐれた人が少なくて すぐれない人が多いというのは 結局 それが生まれつきのように誤解してるがためなんです。

        *

 五年ばかり前 講演が始まる間際に自動車で会場に駆けつけてきた人が 車から降りたかと思うと
 <おーい おーい>と その賃銭払っていってしまったタクシーを大きな声で呼んでいる。ちょうどその後ろの自動車から私が降りた。
 <何を騒いでんの?>と聞いたら
 <鞄を今 タクシーの中に置いてきちゃったんです>
 <鞄? おまえの脇にかかえているのが それ その鞄じゃないの?>っていったら
 <あっ ここに持ってた!>
 他人の話で聞くと かなりおかしいねえ。けれど あなた方は この種類の粗忽や過ちをしたことない?
 つい二 三日前には 大阪の女の人が 私に
 <先生 今日 久しぶりで 先生もご存じのあの人に会いました>というんだ。
 <ああ そう。 洋装だった?>と聞いたら
 <はい 洋装でした>
 <どんなふう?>
 <どんなって 洋装でした>
 <どんな洋装?>
 <さあどんなだったかしら>
 <だって あなたが見たんだろ。色もの着てた?それとも地味な服?>
 <そう言われれば 何か模様があったような ないような>
 <ネックレスしたた?>
 <ネックレスしてたかしら> 
 <自分で見たんじゃねえか。イヤリングは?>
 <それも・・>
 <どんなハンドバックもってた?>
 <だめよ 先生 そんな。女が女を見たのに わかりますもんですか>
 <あら じゃあ女が男を見ると覚えているの?>
 しかし案外 女は女を見るはずだがねえ。同じような年の女がすっと視界に入ると さっと見た刹那 自分よりすぐれているか すぐれていないかを見るね 女は。<なにさ えらそうな顔しちゃって あのハンドバック 赤札で買ってきたんでしょうよ>
 そういう場合に使う認識力はそうとう徹底しているのに どういうものか そのときのその女の人の認識力は不足していて みんな覚えていない。

―続くー



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