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<心に成功の炎を>55 

2018年06月09日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 結局 認識力が不完全でなくて 自分の使用が完全でないんだね。ある一部分しか使っていない。切れ味鋭く使える刃物を 切れ味鈍く使ってしまっているといおうか あるいは安物のカメラに 何年も使わずに もう干上がってしまっているような古いフィルムを入れて シャッターを切っているのと同じようなことをしてる あなた方は。
 とにかく 世間にはピンボケな人が多いんだ。目は節穴 鼻はただあいているだけ 口は物を食うだけ そらもう何もかも まともに使ってない。
 それは これから教わるようなこと理解してない 考えてない 実行してないということに大きな原因があることが だんだんと話を聞いているうちに お分かりになろうと思います。特に今日の演題の<精神生命の中にある認識力とその養成>ということは 自己統御のうえに欠くべからざる必要なことなんです。
 つまり早い話が 人間がこの世に人間として生まれた以上 まず何をおいても 第一に完全に生きていかなければいけない。完全に生きていくには 何よりも自己統御を間違いなくおこなえる人間にならなきゃならない。そうでなければ どんなにお金をこしらえようと どんなに社会的な地位 名誉が普通の人よりも上になってみたところで その人の人生は 客観的にはいかにも完全そうに見えても 主観的にはちっとも完全にはならないのであります。
 幸福そうに見える 幸せそうに見えるじゃ まだ本当に幸福でも幸せでもないでしょう。はたから見てたいして幸せそうに見えなくても 本人自身が真に自己の人生の刹那 刹那 幸福をしみじみと感じて生きられていたら これは本当の幸福だもん。
 そういう人生に生きるのには 自己統御を完全にしなきゃだめだ。そこで この自己統御を完全にするのには 完全にする土台となるべき認識力というものが また完全だあらねばならないということになるんであります。
 とくに これから聞かれるような事柄が 正しい気持ちと心がけで真剣に堅持されていかないと よしんば万物の霊長として生まれて すぐれた力と働きを与えられた心を持っていながらも ただの宝の持ち腐れになってしまうおそれがある。どんなすぐれたものを与えられても 使い道がわからなけりゃ 何の役にもたちゃしない。
 ところが このわかりきったことが 現代の人にはわかっていない傾向があるんですぜ。これだけ文化が進んで 昔の人間と比較にならないほど 知識的にすぐれた存在になりえてる今日の人間が なおこの重大な消息を重大だと真剣に考えていない傾向がある。
 いたずらに知識のみに重きをおいて そして知識を増やすこと 磨くことばっかりを努力していて この認識力の養成ということをおろそかにしている。
 認識力のほうを置いてきぼりにして 知識ばかり説いていると 学べば学ぶほど苦しくなり 極めりゃ極めるほど迷ってくる。なぜかというと 正しい知識を分別する力がなくなっちまう。どんなに 学問を勉強して 知識内容量を多くしても 心の持つ認識力というものがすぐれていないと 本当の人生 幸福というものを自分のものにすることができない結果がくるんです。
 もし知識だけを磨いて人間が幸福になれるなら 学門を一生懸命勉強した人はみんな幸福になれそうなもんじゃやないですか。そして 学問をしない人はみんな不不幸であるべきはずだが そうじゃないでしょう。回帰百万遍 理屈べらべら言うやつが 案外人生をのた打ち回って生きてる場合が多い。

          *

 私なんかもその仲間の一人であったことを お恥ずかしいが 告白する。
 あるとき インドでカリアッパ師から聞かれた。
 <おまえは何のために目の玉を与えられてあるんだ。何のためにおまえは耳があるんだ。何のためにおまえは鼻があるんだ。何のために舌があるんだ。何のために体に暑いとか寒いとか かゆいとか痛いとかと感じる感覚があるんだ>と矢継ぎ早にね。
 そのとき 自惚れだけは人の何倍も強かった私 こりゃあもう腹が立ったねえ。私の先生は時々ずばぬけたえらいことを言うかと思うと 時々そういうな 何のことはない へそを頭につけたようなことを言うものですから 一言 一言に冷やかされてると思ったんです。日本で先輩や先生に教わっているときは いつでももっと親切だわね。変な皮肉は言いやしねえもん。けれど 私に対するカリアッパ氏の教えはすべてそういうふうなの。そして
 <何の必要があってそんな質問をするんです?>と聞いたら
 <おまえの持っているそれらのすべては ただ存在しているだけの有名無実なものだ。おまえは 目も鼻も口も舌も 体にある感覚も ただあるがままに働かせて ちっともそれを役立たせていない>というから
 <役に立ってますよ!>
 <そうか まあ かろうじておまえが役立たせてるという点だけを見れば 現在 病からくる苦しい感覚 つらい 悲しい気持ち そんなものだけを一生懸命心の中に取り入れてるだけだろうなあ。そうじゃなくして 全部使え 全部>
 <全部使ってないように あなたはご覧になるんですか>
 <おれの目にとまるおまえは おまえのもっているそれらのすべてを さあなあ よく使って4割かなあ。毎日使っているおまえの心は せいざい2割りだな>
 <冗談でしょう。それはあなたの見そこないです>
 <そうかい。見そこないなら結構だけれども おまえは本能の感覚と感情だけしか その五官の感覚を使ってないじゃないか。おまえをこうやってエジプトから連れてきて3ヶ月になるが おれの質問に答えるおまえを見ると おれがエジプトで思ったときよりも おまえはばかだ。おまえは心の一部しか使ってないんだ。この一部を全部使ってるように思っているが これは間違いだ>と
 私なんかも若いときはね 自分が無学だから 大きな出来事に直面すると もう人知れない悩みを深く感じたんです。そのころは わからないことが多いから悩むんだ 苦しむんだと思っていた。そのわからないことをできるだけ少なくするのには 勉強するしか方法がないじゃないかと思って 一生懸命勉強しだしたら 勉強うするにつれて わかることはわかってくるけど わかると同時に 苦しみのほうがまた分量が増えちまう。
 というのも 大切な認識力の養成ということをインドに行く前はぜんぜん考えなかったから そんな必要があるなんてことはちっとも考えやしないもん。
 私は今からあなた方にお話しするようなことを インドでもっともっと科学的でない教え方で悟ったわけなんだ。
 さらば一体 どうすればその肝心かなめな心の持つ認識力というものを完全に養成することができるか。聞いちまえばなんでもないんですよ 聞いちまえば。何でもないんだが さて 聞く前にちょっと考えてごらん。あなた方ならどう考えるか。
<1行空く>

ー続くー



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