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平成の虚無僧一路の日記

世阿弥配流の謎 

2018年06月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



佐渡では能が盛んだ。能舞台があちこちに在る。それは能の大成者、世阿弥が流されてきた地だからだ。ところが、なぜ世阿弥が佐渡に流されたのか、理由は全く判っていない。その後世阿弥が許されて京都に戻ったのか、佐渡で失意のうちに亡くなったのかもはっきりしない。世阿弥の父観阿弥は世阿弥が22歳の時、駿河(現静岡市)で演能の後、客死している。また世阿弥70歳の時、息子元雅も津で変死する。その2年後、世阿弥は72歳の高齢で佐渡に流されるのである。井沢元彦氏は、破天荒な推理をしている。観阿弥、世阿弥は楠木正成と縁戚関係にあった。世阿弥は12歳の時、足利三代将軍義満に見出されて寵愛を受けていたが、父観阿弥は、なんらかのトラブルで、足利一族の今川氏によって殺害された。世阿弥は、父を殺された恨みを忘れず、つまり“初心忘れず”、義満暗殺の機会を狙っていた。そしてついに46歳の時、義満に毒をもって、本懐を遂げた。義満暗殺の首謀者は、長男で4代将軍となっていた義持。義満は次男義嗣を天皇にしようと企んでいたため、義持はそれをやっかみ、世阿弥に義満を殺させた。だから義持は父義満が変死を遂げたにもかかわらず、下手人の詮索もせず、さっさと葬儀をおこなって、父義満の建てた相国寺は金閣寺のみ残して全部取り壊し、弟義嗣の立太子も反故にし、あげくのはて、10年後、義嗣を殺している。義持には子が無く、義持の死後5代将軍となったのは、腹違いの弟義教。義教は、義持が寵愛した世阿弥を疎んじ、世阿弥の弟の子(つまり甥)の音阿弥を贔屓にした。それで、世阿弥の子元雅を殺害して、世阿弥の直系を絶やし、義満殺害の直接の下手人として世阿弥を佐渡に流した。実は、一休の生涯はこれと深く関わっているのである。一休こそは、100代後小松天皇の子であり、101代天皇になるべき人だった。それが、義満のわが子義嗣を皇位につけるという企みで、一休は6歳で安国寺に預けられたのだ。

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