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平成の虚無僧一路の日記

『鳥刺し』 と 保科民部 

2018年06月01日 外部ブログ記事
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藤沢周平原作の『必死剣鳥刺し』で、「保科十内」と「津田民部」という名前が登場する。会津藩家老の「保科民部」の姓名が分けて使われている。偶然か、あるいは藤沢周平は意図的に この名前を使ったか。保科正之が会津藩祖となる前、山形の藩主だった時のこと。隣の白岩領(現寒河江市)で農民一揆が起きる。映画『鳥刺し』では、別家の帯屋隼人正が農民に理解を示し一揆を鎮めるが、結果的に首謀者は打ち首、獄門となる。それと似たような事件だ。  白岩領は酒井忠重の所領で、代官が納めていた。そこで一揆が起き、代官は手に負えず、山形に助けを求めてきた。それで、城代家老保科民部が、白岩に赴き、百姓達に「お前達の言う所は一々もっともである。山形へ来て、保科正之に直訴したら良いだろう」と勧めた。百姓たちは大いに喜び、代表35名が山形へ出向いたところ、全員が牢に入れられた。保科正之は老中酒井忠勝へ書状を送ったが返事がない。再三督促したが、裁きが無かったので、正之の命で、白岩の百姓ら35人は、磔にされてしまった。過酷な処置だが、島原の乱直後の不穏な時代であり、幕府の威光を示すための英断であったとする向きもある。さて、保科正之はその後、会津23万石に移封する。その正之の室お万の方が、政治に口出しし、専横を極めた。正之は、女の恐ろしさに懲りて、「婦女子の言は一切聞くべからず」と遺訓を残している。
(『鳥刺し』でも、藩主右京太夫は側室・連子に入れあげ、                                         領内では百姓一揆がが勃発するという点で似ている)。
そして、3代藩主正容の時、保科民部の孫、民部正興が「知行を召上げられ、小川庄水沢へ配流」となった。民部はお万の姪を妻に迎えていたからだったとも。
この時、私の先祖も連座してお取り潰しになるところだったが幸い取り潰しは免れた。その真相を探って小説にしたい。

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