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<心に成功の炎を>46 

2018年05月30日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 理性心というのは 早い話が 何の力もなく ただ小理屈こねて べらべら さみだれ小言のようなことばかり言い続ける家庭教師みたいなものなんです。本能心のほうは 始末におけない 親の言うことも聞かない わがままな子供みたいなものです。のべつ のべつ ぶつぶつ くだらない小言ばかり言ってる教師にしつけさせたって 言うこと聞くもんかい。それを聞くと思っているところに あなた方のたいへんな計算違いがあるんですぜ。
 理性心は ものの善悪 邪正 曲直 是非というものは見分けますよ。それはいけないことだ これはいいことだと。けれども この理性心には 本能心を統御したり いわんや 整理する力は これから先もないんです。
 理性心で本能心が統御できるならば いいかい 何も人生というものは苦労する必要ありゃしないんだよ。学問が豊富になって いわゆる学者 識者とならないまでも 常識の中が非常に理知で豊かにされたならば みんなこの本能心が完全に整理できそうなもんだが そうはいかないんです。だから もう2千年前から孔子がすでに言ってるだろ。<学んでいよいよ苦しみ 極めていよいよ迷う>と。いい悪いがわかればわかるほど 人間は苦しいんですよ。
 それじゃあ 理性心と本能心を監督していくものは何かというと それは<意思の力>であります。人間の本体である霊魂の中からでてくる意思というものが 本当にこれを監督する権能をもっているんです。意思は 次に話す霊性心とは違うんです。
 医師の力が出てくると もう快刀をもって乱麻を断つごとく 必要な心だけ来い いらない心はあっちに行け 医師の力がパッと追い出しちまうんです。
 意思を煥発せしめるのには その鍵をにぎっている心というものに完全にその主体性を発揮せしめなきゃいけないんですよ。その主体性を発揮せしめようとするには 何をおいても心を積極化しないとだめなんです。
 観念要素の更改を情熱を燃やしてやりながら 積極観念の養成法と神経反射の調節法を本当に真剣にやってごらん。黙ってても意志の力が出てくるんです。でてくれるなといったって でてくるんだ。そういうふうにできているんですよ。
 そして どんな場合があっても 理性に自分の心を統御させるというような 間違ったことをやらないこと。

 だからねえ 考えなきゃいけないよ。我々は自己の有する現在の理性を無常のものとして あまりに尊重するのは決して賢いことじゃないってことを。よろしいか。まして その現在の理性のみで万事を行なうがよいと思えば はなはだしい誤りがくるんです。
 しかし ただ一概に理性を だめだから排斥しちまえというんじゃないですよ。そんな乱暴なことを言ってんじゃないんだから 聞き違えないように。人々が われわれの実際生活のうえで多大の恩沢をうけてるところの知識的な発明や発見というものは みんなこの理性 理知の結んだ花であり 実りであるんです。だから われわれ人間はこの理性というものの力と働きに対して 心のそこから感謝しなきゃいけない。礼賛もしなきゃいけないのであります。排斥しちゃいけない。
 ただ 私の言うには だからといって これにのみ極端に人生の全部を託しちゃいけないというんです。それはなぜかというと 人生が何事もない世界でもって終わりゃ これは問題ないよ。けれど 人の世は波だ
 風だ。たった今は無事だろうとしてもだ 一寸先は闇のたとえのとおり いつ何時どんなアクシデントが健康的なり運命的に生ずるかわからないだろう。
 さなきだに この複雑多端な現在のような人生に生きいくときは しばしば 今までいっぺんも経験していなかったような新しい問題というものも 本当にしばしば起こってきますよ。そういうときに もしも理性をもてあまして生きていると 賢明なる知恵 分別が出ないようなことが往々にある。その事件を解決するだけの十分な理性がまだ発達していなければ 解決できないでしょう。
 自分の理性が よろしいか 最高の理性じゃないんだもん。その人の知識の発達する程度にしか働かないんだから。
 もっとものをたとえていえば この重さが二十貫あるのに 自分の力は十貫目しか持ち上げる力がないときにには 目の前にものがきてから どうすることもできないと言う状態と同じような結果に陥る。するとどうなるというんです。そらもう言い知れない煩悶というものがすぐパーッと その人の心の中いっぱいに みるみる 先も見えないほど霧がたれこめるようになっちまうんですよ。
 そうすると さあさあ 明るく朗らかに 生き生きとして勇ましく生きなきゃならないのが 心というものを本然の姿のままに生かす手段だということが先般わかっていても 心の中には不平と不満と失望と落胆という 肉体に感覚する苦痛よりは ある意味においては もっと大きな苦痛というものを いやでも味わわされるという事実がきてしまうんであります。
 そうしてまあ ほんとうにもう考えきれないほどの喜びと楽しみに満ち満ちている世界である光明人生を やれ気が重いの つまらないの おもしろくないの 晴れ晴れしないの 自分で自分の心の中に風呂敷かぶせて そして自由にならないって もがいていることぐらい滑稽なことがありますか。
 こういうと どの心もあてになりゃせんがな。あれか 造物主というか 神様というものは 人間にあてにならん心ばっかりくれたんか。そうじゃないんですよ。人間ならばこそ どんな場合にも間違いなく人生を生きていかれる立派な認識力をもち 統御力を持ってる心があるんです。

 それが最後の霊性心なんであります。

―続くー



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