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たかが一人、されど一人

宿命 

2018年05月28日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

一昨日弟の葬儀を終わって、長野から夜帰宅した。半年足らずの間に家族、しかも年下二人が先立ってしまったので胸の内は表現できない。弔問を下さった方は口を揃えて「未だお若いのに残念です。」お悔やみを下さる。妻は満72歳直前、弟は満75歳直前での逝去であった。有難いお言葉であるが、私は彼らがまだ若いとは思わない。確かによく言われる日本人の平均年齢と比べれば、少々若いかもしれない。しかし、彼らは自らの長い人生を十分に生き、思い残すところも少なくなって満足してあの世に赴くこと決意した見事な結果だったと思っている。政府は何を考えているのか知らぬが「人生100年時代」をしきりに喧伝する。人生長ければいいとも思わない。人間は長じてある年齢までは社会の中で自立し、社会にも貢献できるだろう。これとて心身共に個人差があるから何歳とは特定できない。が、社会貢献や自立が難しくなる時期は必ず来る。老後の生き方については様々な考え方があるだろう。長生きをすれば子や孫たちも嬉しいだろうが、巨視的見地に立てば子や孫たち或いは社会全体に生かされる格好になる訳である。その環境の中で、それまでに思いを残した仕事なり趣味に没頭して自己実現にいそしむのも悪くない。人それぞれである。その環境に入る年齢は先に述べた通り個人差が大きいので一概には言えない。でも古来稀とされた70歳ともなれば大方の人は社会貢献は難しくなる。私も既に78歳、皆さんのお陰で生かされている立場だ。残念ながら皆様のお役に立てることは実に少ない。何かやりたいことがあるかと聞かれれば、無いわけでもない。それには何年必要か?と聞かれれば答えられない。個人的生きる目的も極めて曖昧である。人様のことは分からないが、似たような思いでただ生きているだけのご老人も結構多いのではないだろうか。少なくとも街中を歩いているとそう思う。楢山節考のように、人生70年として老人には早く死んで頂けるような社会を構築することを目指せと言うつもりもないが、死期は宿命なのだろう。宗教感とも関わってくるので論理的には書けないが、少なくとも弟は現在極楽浄土を目指して西方に向かい楽しい旅をしていると信じている。

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