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平成の虚無僧一路の日記

下関市豊浦の虚無僧墓 

2018年05月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



昨年、山口県を旅して、下関から海岸沿いに北へ向かって豊浦町を通った時、「虚無僧墓」という看板を見つけた。やはり“呼ばれた”という気がした。山口県には、室町時代の文明18年(1486)『大内家壁紙(禁制)』に「薦僧、放下、猿引きは追い払え」とあり、江戸時代を通じても、虚無僧寺は無く、虚無僧も居なかったと思うのだが、解説には、「天保年間(1830〜1843)1人の虚無僧がやってきた。しかし、尺八を吹いているとき以外は、酒ばかり飲んでおり、村人達は敬遠していた。ところが、村の娘が山賊に襲われたとき、娘を無事救い出したのは、この虚無僧だった。弘化3年9月15日、虚無僧は、突然、川棚川の河原に走り出し、大きな岩に頭を2度3度ぶつけて倒れた。虚無僧は、村人に「脳を冒されたために、なにもしてあげられなったが、私の墓をたてて酒を供えてくれれば、あなた達の苦しみを和らげてあげよう」と言い残して息を引き取った。村人達は、虚無僧が頭の痛みを和らげる為に酒を飲んでいたと知り、墓を建てて供養した。この虚無僧墓は、頭の病気に御利益があるとされている。とのこと。(所在地:下関市豊浦町川棚中小野)というわけで、虚無僧がやって来たらしいのだが、天保〜弘化にかけて、岐阜芥見村で虚無僧同士の争いがあったことから、取調べを受け、その結果虚無僧の中には不逞の輩も多いとされて、取り締まりが厳しくなっていた。幕府から「虚無僧を勝手に泊めてはいけない」というお触れも出されており、虚無僧は厄介者だった。そんな虚無僧でも、こうして今日まで村人によって供養されているとは、うれしい話だ。ひとり山賊に立ち向かい娘を助けたのも「命惜しまぬ」覚悟だったからか。

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