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<心に成功の炎を>36 

2018年05月18日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 今までついぞいっぺんも考えたことないでしょう。このどれかしらんが 絶えずあなた方の心の中に出てきているんですよ。本当からいったら 万物の霊長たる人間 その生命の中に与えられた心の区別ぐらいは十分に知って生きているべきなんですが。
 そこで この分類せられた心に対して もう少し詳しく説明しますが 肉体生命に付属している心の中の物質心というのは 何かものをほしがる心だと思ったら 違うんですよ。
 物質心は 物のすべてに存在している。物の芯をなしているのが物質心なんです。
 どんなものにも 形あるものには 形あるものを形成する心というものがあるだろ。チョーク一つ 崩してみても 芯があるんだよ。形を形づくる場合における中枢中核となるものが<芯>という。コンペイトウを割ってみると ケシ粒が芯になってるね。
 物質心は心を働かす意識領域に飛び出してこないんです。だから 物の芯として でんと鎮座しているだけでもって 何の活動状態にも入らない心なの。しかし平素は 活動状態に入らないけれど 生まれるときにはこの物質心が一番先にできて そして肉体がつくられて 死ぬときには 一番最後までこの物質心がとどまって 物質心がなくなったときに あなた方の体は水になっちまうんです。
 この物質心は 我々の生命が生きるうえにはどうしてもなくてはならない心だけど ふだんは活動してない心だから あるもなきも同じように考えられて忘れられてしまっている心なんです。だから あなた方があえて正しく理解しておく必要はない。理解しなきゃならないものは あとの四つだ。

 第二の植物心。これは物質心と違って 活動的な心ではあるけれども 意識領域にでて活動しない心なんだ。意識領域にでて活動しないから 同じ活動していても この心があるようには少しも感じないんであります。
 ところがね この植物心があればこそ お互いの五臓六腑はこの心の命令で働いている。あなた方は 体の中に 胃だ 肺だ 心臓だ 肝臓だ 膵臓だ 腎臓だ 副腎だ というものがあるってことをおぼろげながら知っているが 意識領域に出てこないからいま現在 どの臓器がいちばんよけいに働いてるかなんてことはちっとも感じてないでしょ。
 ごはん食べたての3時間ぐらいはいが消化のための努力をしている。そして 十二指腸が活躍している間に絶え間なく 胆のうや膵臓から 消化液が分泌されて 十二指腸から小腸を通って大腸へ行って 血となし 肉となし 骨となすという働きを行なって それをグングン グングン 体の中に吸いこんでいる。そして いらないものはかすにして直腸に送って 直腸のほうはやり場がないから瓶の中へ送るというようなことをしてるってことを意識しないだろ?
 あなた方が知らなくても 植物心は何にも知ってもらう必要はないんです。生きてる以上は これを絶え間なくおこなってる。夜寝てる間もやってる。これはじつに勤勉なる命の保護者なんだ。
 あなた方がべつにお小遣いやらなくたって かわいがらなくたって 何にも干渉する必要がなく 生きてる間はちゃんとその生命を守って働いてくれる。隠れたる縁の下の力持ちをする心が植物心なんです。まことに 形容できない尊い心だね。
 植物心という名前が変だけど これはね 草にも木にもあるからなんです。ただ 鉱物には植物心はない。鉱物のほうにあるのは物質心だけ。こういうと なかには 鉱物だって変化するじゃねえかという人がいるけれど あの変化は 鉱物それ自体の活動でもって変化してるんじゃなくして 物質心の増減によってあの変化の状態が表れるというだけなんです。
 世界的に有名な学者であり そして冶金のほうの科学者である三島徳七博士(もと東大名誉教授)がね
 <どうして先生 そんなこと知っているんですか。我々でさえ それがようやく最近にわかったんです。先生のいまの説明でもって たいていの人はわかるけど 学者たちは アトムの関係と物質心の連鎖関係がわからない以上は 鉱物の変化に関するところの学術的説明はできないというふうに決定したんです。私はこの次の博士会議の時は 先生のその口調をかりて話をしよう。版権侵害にならないでしょうね>というから <ああ いいとも 言いなさい>といって 非常に喜ばれたんですがね。
 これは私がただ霊感でもって感じたことなんです。

 さあそこでだ いま言ったとおり 植物心は何も直接的に我々の大脳が監督しなくても どんな不精な人の植物心でも 命を保つ作用は忠実に働いているけれども ここに忘れてならない大事な注意がある。
 それは あなた方の大部分の 何かといえばすぐ怒ったり 悲しんだり 恐れたり 憎んだり そねんだり ねたんだり 悶えたり 悩んだり 苦しんだり 迷ったりするような心になると あなおそろしい 植物心に大きなショックが与えられる。すると ふつうにしておけばきわめて完全に働いてくれる植物心 ならびにその支配を受けている自律神経の仕事がちっともはかどらなくなってしまうんです。
 だから どんな場合があっても 平素 心を消極的にしちゃいけないという理由がそこにああるんです。とりわけ 病の時に心を消極的にすると 治る病が断然治らなくなってしまうという理屈もこれでわかっただろう。
 ところが 世間の人間 こんなことぜんぜん知らないんですぜ。偉そうなことをいっているのは ただ上辺だけでもって 内面的な方面は極めて空虚で貧弱なんだ。生きていられるから生きている。夜来たらば寝て 朝来たから起きて 腹がへったから食って 食った物が垂れなくなったら垂れるという ただその繰り返しが人生なんです。
 <冗談言っちゃいけないよ。おれはただ寝て起きて食って垂れていやしねえ。その間 働いてらあ>っていう人が多い。世間のほとんどの人は食わんがために働いてますぜ。<働くことがどんな人間でも 人間として生まれた義務だ 食うために働いてんじゃない。働くために食ってんだ>という人は少ないね。
 一歩表へ出てみれば <毎日よう ご精がでますなあ。いえね 近所でもほめてんだ。あんたのように働く人はたんとない>
 <いやあ おほめにあずかって痛み入ります。いえ べつに私は 働きたくて働いてんじゃござんせんけども 食えませんもんなあ 働かないと>と こういうのはたいていの人間同士の挨拶だね。
<1行空く>

―続くー



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