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<心に成功の炎を>23 

2018年05月03日 ナビトモブログ記事
テーマ:中村天風<心に成功の炎を>

 これは 旧制の陸軍 海軍で私の話を聞いた人たちが 非常に貴重に実行していたもんなんです。科学的な詳細は後日にゆずって 簡単に方法を言おう。
 あなた方は今まで すべての感情や感覚の衝動 刺激を心で受けて 驚き あるいは怒り あるいは悲しんでいただろ。それを今度は腹でうけるようにする。
 そう言っただけじゃ わからないからな。もっと詳しく言うと 何かしらの感情や感覚の衝動 刺激があったならば まず第一番に腹に力を入れる。次に忘れてならないのは それと同時に肛門を閉めて肩をおとすこと わかるかい?
 つまり 肩と肛門と腹の三位一体 ヨガでは <クンバハカ>といって もっとも神聖な状態をいうんです。
 腹に力を入れて肛門をしめて肩をおとしていると どんな大きな衝動や刺激がきても 少しも心に動揺を感じないばかりか 体に少しも変化も起こさない。心だけでショックや衝動をうけていると そのショックや衝動に心がいたぶられてしまうんです。あなた方は ダーッと大きな音ひとつしても 心がピクッとするだろう。
 昔の武士が <腹をねれ>と非常にやかましく言ったのは このへそを中心とする腹筋神経から脊髄に連絡している全神経系統の動乱を防ぐという。これがゴールデンキーだからなんです。
 ところが 今の人間は腹をねるどころじゃない。腹がへるときだけ食い物を食いたがる。
 もう一回言うよ。何かしら ドカーンときたら 三位一体でキュッとそれを受ける。丹田(編集注 へその下の下腹部にあたるところ)に力を入れると同時に 肛門をしめて肩をおとす。肩をおとすのは肩があがると 横隔膜が上昇するから キューッと気分の中に空虚を感じるんです。そうすると神経系統の調子を狂わしてしまうんだ。
 昔から 水に溺れた人間でも尻の穴がしまっていたら助かる。木から落ちてもしりの穴がしまっていたら助かるというでしょう。
 だから たとえ人間の体のいちばんの急所であるみぞおちに 強い衝撃を与えられても この三位一体をやってると どんなに強くきたってびくともしないんです。そのくらい人間の体というものは強さが違ってくるんです。
 ですから 1日に何回でも 実行してごらん。多けりゃ多いほどいいんですよ。すると いざというときに神経反射の調節がパッとできるようになるばかりでなく 落ち着いた気分が求めずして自分の気持ちの中にでてきて 今までのように感情や感覚にやたら引きずり回されなくなる。結局 あわてふためくから ふり回されちまうんだからね。
 習慣は第二の天性といいますが 習慣がついてくると 簡単にできるようになるからね。
 いかがです? 聞いてしまえば <なんだ そんなことか>と思うようなことばかりでしょう。私は誰でもできる方法しか教えないんですよ。だって できないもの教えたって 何の役にもたたないもん。
 しかし よく考えてごらん。人間が人間になる方法に難しい方法のある道理はないんです。人間が猿になるとか 馬になるとか 象になるとかというなら こいつは難しいだろう。けれど 人間が人間になるのに難しい話はないんです。
 いま教わった方法を一生懸命にやってごらん。そして一日のうち できるだけ消極的な気持 さっきいった消極観念の十か条のどれか知らんが心の中にしのびよらないようにしなさい。しのび寄ったら すぐ発見して心の御殿に入れないこと。そして つねに明るく 朗らかに いきいきとして勇ましく心を生かさなきゃ。
 そして なにか大きい衝撃を受けたら キュッとクンバハカで三位一体にしちまう。
 これだけのことなんだから 理屈つけないで 聞きっぱなしにしないで おやんなさいよ。ただし 真剣にやらなきゃだめよ。ただ教わったまま ああそうか ああするのか こうするのかというような平ぺったい気持でやったんじゃ 結局 同じ鉄をたたくんでも 気なしでたたくのと一心こめてたたくのとでは 鉄も断つべき正宗もできれば 菜っぱも切れない包丁もできるという結果がきますからね。
 それでもね 当座の間はやりそこないますよ。そうねえ 10ぺんやって 1ぺんできりゃいいほうですよ。いや 百ぺんやって1ぺんできりゃ結構だと思うつもりでやりなさい。それが 百ぺんやって1ぺんのやつが だんだん2へんになり3べんになり4へんになり5へんになり しまいに百ぺんが百ペんになるってことになるんだから。でもやらないでいちゃだめだよ。
 そしてやりそこなっても <ああ またやりそかなった。もうだめだ>なんて落胆する必要ないのよ。
 真理を知っていないときには 別にそんなことは気にかけなかったのに 私からこういう話を聞いて そういうことは悪いんだってことがわかると 純真な人ほどたいへんな悶えを感じるんですな。一種の真理に対する自責の悶えといっていいんだろうと思う。よく私に聞いてくる人がいる。
 <先生 クンバハカは難しいですな。教わった時はやさしいと思ったんですけど ヒョイと気がつくと いつもしりなながあいてんです>
 そういうときに私は必ずね 一律平等 だれにでも同じ返事をしてる。
 <そういうときにね しまった また締まってないと思うのは 普通の人間の考え方じゃねえか。修行してる人間はもう一段上のことを考えろ>
 <へえ 考え方がもう一段上にあるんですか>
 <あるよ>
 <どういうことを考えりゃいいんですか>
 <そのときはすぐ締めちまえばいいんだよ。なあ しまったといって悔やむよりも 締まってなかったら締めりゃいい。これだよ>
 <ああ そうでしたか>
 わかりきったことなんですけど いわれなきゃわからないらしんだな。
 心がそうなのよ。消極的になったとき <ああ しまった。いったい何のために自分は修行してるんだ。何のため一生懸命に天風先生の話を聞いてたんだ>というふうに思っちゃいけないんだよ。
 そういうことをしてるとね。多々ますます心が暗くなるとも 明るくなりゃしないんだよ。自責の念に耐えかねるということは よりいっそう心を暗くすることがあっても 明るくしないもん。そういうときには それを悔やむことのかわりに そいつを相手にしないで ハッと気持を積極的のほうに取りかえちまえばいいんだ。
 消極的の思考がたまたま生じてきても そのときけっして悶えたり 驚いたり 悲しんだり 悩んだりしちゃいけないんだ。そのときなんだ 闇は光に照らされれば消える。夜の暗いときに明かりつけりゃあ その闇が消えるのと同じことだ。
 だから 第一に我々はそのとき その消極的な思考が発生してきたことをいたずらに悶えることをしない。言いかえると 断然そんなことにかかわり合いをつけない。そして反対に ただ一心に積極的思考蚤を心の中に持ち込む努力をするんだ ねえ。
 気が落っこってたら 反対のことを考えりゃいいだけだもん。そうすると その反対のことを考えた いわゆる消極的に対する反対は積極的だから 積極的なことを考えただけで その心の中に燦然たる光が出てくる。そして その光が闇を消す明かりなんだよ>
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ー続くー 



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