メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

八十代万歳!(旧七十代万歳)

地元の方に聞いて頂きたい物語 

2018年03月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



埼玉南部のこの辺りには、小さい村がたくさん有りました。三芳町だけでも四っつの村が合併してできており、それぞれの村の神楽があります。


上福岡のあたりにも、いろんな村があったようです。言い伝えがたくさん残っていて、それを本にまとめて下さった土地の古老がおいでになります。
その本から、私が語り言葉にまとめ直した物語が有り、地域の方にはぜひ聞いてもらいたいと思っています。
「びん沼川には、昭和の4〜5年ごろまで河童が住んでいたんですよ・・・」とか、


「養老橋の近くにはおんぶお化けと偽物のおんぶお化けが出たんですよ」とか。
このおんぶお化けは「ぶっつあるべぇ!」と言っておぶさってきます。
方言で、「負ぶさるべぇ」と言っているのです。




「ぶっつあるべぇ」 富田竹雄著 ふじみ野風景物語より 中谷久子再話 (7分)


昭和の時代の話だ。
古市場の商店街には日が暮れても人通りが有った。昨日までに田植え仕事を終えた若者が二人煎餅屋の縁台に腰掛けて、煎餅をかじりながらなにやら相談をしていた。
まさやんは華奢な若者で、たけやんはがっしりした体格で、いずれも徴兵検査前の年頃であった。
二人は立ち上がると、新河岸川の養老橋を渡って、福岡河岸の方に歩いて行った。
古市場の街には明かりがあるが、橋の向こう側の福岡村には深い闇が広がっていた。
この晩の彼らの目的は「ぶっつぁるべぇ」と言うおんぶお化けを捕まえることにあった。
福岡河岸のハケの上の上り坂の辺りでは最近、おんぶお化けの噂が絶えなかった。
「ぶっつぁるべぇー」と言うのはこの辺りの方言で、「負ぶさるべぇ」と言う意味なのだが、化け物が「ぶっつぁるべぇ〜」と叫んで負ぶさってくるのだと、もっぱらの噂だった。
このおばけは、若い娘っこだという人もいれば、大入道だというものもいた。
娘っ子は主に御嶽山に出た。
これは武蔵御嶽神社を信仰する講というグループの先達さんの家に作られている高さが5メートルほどの築山で、頂上には御嶽神社と三笠神社が祀られており、くねくね曲がった登山道の至る所に石碑や石像がたくさん立っている。富士塚と同じような築山だ。
この築山は道路には近いが周りは鬱蒼とした屋敷林であった。
娘っ子のおんぶお化けはこの辺りに居て、嫁にしてくれろと負ぶさってくるらしい。
一方、回漕問屋 江戸屋の竹林の隅に有る野良便所の辺りからは、大入道の「ぶっつぁるべぇ」が出ると、もっぱらの噂であった。
この便所は、江戸屋の大勢の使用人が外仕事の時に使っていたもので、今では使われておらず、孟宗竹が覆い被さっていて、夜は特に不気味であった。
お化けを捕まえようと相談して出かけてきた若者たちだが、二人の目的は全く違っていた。
まさやんは可愛い娘ッ子のお化けを負ぶって帰りたいと思って居た。
たけやんは、大入道に扮しているのは不心得な人間だろうから、とっ捕まえてやろうと思って居た。
たけやんは「野良便所のそばで待つ」と言い 、まさやんは「そんなら俺は御嶽山で待つ」と言って一人で登って行った。
まだ真夜中前だったが、江戸屋の陰から大きな人影が現れて、野良便所に入り、何やら長い着物を着て出てきた。
隠れて居たたけやんは、「ぶっつぁるべぇ〜」と叫んで大男の背中に組みついて行った。
不意をつかれた大男は、振り払うこともできず、二人は取っ組み合いになった。柔道の心得のあるたけやんは、大男を坂の下にむけてぶん投げた。
大男は「俺のほうが本物のぶっつぁるべぇだぁ〜」と言いながら逃げて行った。
いっぽう御嶽山のまさやんは、背中に何かの気配を感じた。
柔らかいものがふわっと被さってきて、
「あら、川っぱたの まさやんじゃないの。あたしよ、あたし。ねえ、あたしをお嫁にしておくれ」と、甘えた声で言う。まさやんの望み通りの展開だったが、連れて帰る気で居たはずのまさやんの口からは「お前はおとかだな、お前はおとかだ」という叫び声が飛び出した。狐のことをここいらではおとかと言うのだが、可愛い娘っ子でも、化け狐であは怖ろしいと咄嗟に叫び声が出たらしい。ガタガタ震えながら「おとかだ」と叫び続けた。
背中がフッと軽くなった時、ポンと肩を叩かれた。
「おとかじゃねえよ、おれだ、たけやんだ。いま、大男のぶっつぁるべぇをぶん投げてきたぞ」
柔らかい娘っ子を捕まえ損ねたまさやんは、何だか酷くがっかりして、その場にへたり込んでしまった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
江戸屋の野良便所は今も福岡河岸記念館の向かいにあるそうです。
上福岡で語れたらいいのですが。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「河童の詫び状 」 ふじみ野風景物語 富田竹雄著、より、中谷再話 (7分半)


おとやんは福岡村の百姓だ。
おとやんが子供だった明治の頃は、この辺りの農家から大宮の市場まで青物を運ぶには新河岸川と、荒川を、渡し船で渡るしかなく、リヤカーや手車を渡し船から降ろして高い高い土手を越えるのに、車を押し上げる人手が要る。だからどの家も二人連れで行かなければならなかった。
大正3年に東上鉄道が開通すると、上福岡駅前に青物市場が出来て、そこに売りに行けるようになった。それでも、大宮の市場の方がが高く売れたので、苦労して大宮まで運ぶことがあった。
昭和になると川が改修され、次々に橋が架かって、おとやんたちも自転車にリヤカーをつけて、一人で大宮まで往復出来るようになった。
そんなある年の8月のお盆が近づいた日のことだった、
おとやんは、夜明け前からスイカやマクワ瓜や、きゅうりや菜っ葉などを収穫して、リヤカーに満載し自転車につけて大宮へ出かけた。
市場では、お盆前の為野菜も果物も予想外の高値で売れた。そこでおとやんは昼飯を食べに入った店で軽く一杯引っ掛けた。(子供さんには「お酒を一杯だけ飲んだ」と言います。
帰り道、ジリジリ照りつける日差しの下で、夜明け前から働きづめだった疲れがどっと出て、眠くてたまらなくなった。
欅の木陰に自転車を止めて、リヤカーに敷いたむしろの上にごろりと横になるとたちまち眠り込んでしまった。
激しい雷鳴に目を覚ました時にはもう日が暮れていた。慌てて蓑と菅笠をつけたが、自転車につけた懐中電灯では、先が見えないほど激しい雨になった。
突然目もくらむ光が轟音とともに冲天から落ちてきた。目の前の大木がバリバリと音を立てて裂け、火を噴いた。あまりの恐ろしさにオトやんが立ちすくんだのはびん沼川の小さな橋の上だった
目の前に小さな子供くらいの奇妙なものが両手を広げて通せんぼうをしていた。稲妻の光に見えた姿は裸で青白い体、これは話に聞く河童の子供だなとおとやんは思った。
河童小僧は、奇妙な甲高い声で
「置いてけ〜、それを置いてけー」とさけんでいる。
オトやんは思わず胴巻きを抑えた。夜明け前から働きづめで手に入れた今日の稼ぎをこんな河童小僧に取られてなるものか、そこで自転車から外した懐中電灯を河童の顔に向けて近づいていった。
すると河童は怯まず飛びかかってきてオトやんの蓑の襟首をつかんだ、河童の方が力が強くて、オトヤンはのけぞってしまった。おとやんが踏ん張った途端蓑の縄が切れてスポンと脱げたはずみに河童は蓑を掴んだまま川に落ちて行った。そのとき橋の杭に頭のお皿をぶつけたらしく、「痛いよ〜痛いよ〜」と泣き叫んでいる。
「河童が欲しかったのは銭ではなくて蓑だったのか、そんなら始めっからそう言えばいいのに 」とオトやんは思った。それにしても川で暮らす河童が何故蓑を欲しがるのか不思議だった。
雨が小止みになった。おとやんはなんだか可哀想になって「笠もなければ頭が濡れるだろう」と、菅笠を脱いで橋の下に放ってやった。河童小僧は「ごめんなさい、有難う。御恩は忘れません」と謝った。
おとやんは真っ暗な道をゆっくり走ってようやく家に帰り着いた。
女房や 子供には今しがたの怖かった話をする気になれず、「酒を飲んで遅くなっちまった」とだけ言った。
おとやんが床に就くと、河童の親子が訪ねてきた。河童の父親が「蓑はお百姓さんの大事な仕事着だから、お返しに上がりました」と言って、息子のいたずらを詫び、深々と頭を下げた。おとやんは面白い夢を見たと思った。
夜が明けるとオトやんは近くの畑で野菜を収穫しようと外に出た。すると戸口に、昨日河童小僧に剥ぎ取られた蓑と、投げてやった菅笠が、きちんと置いてあった。手紙も添えられていて「おとやんごめんなさい。お百姓さんの大事な蓑と笠を、河童小僧が取り上げまして、申し訳ありません。親の責任を感じて、お返しに上がりました」と書いてあった。
夢ではなかったんだと気になって、おとやんは畑に行くのを止め、物置から自転車を出すと、びん沼川の橋に急いだ。すると、橋のたもとの柳の枝に木の札が下がっていた、近づいて見ると「河童はこの辺りの川から引っ越しました」と書いてあった。
それ以来、この辺りで河童の噂を聞くことはまったくなくなった。


昭和になってもびん沼川に河童がいたというお話でした。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ