メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

ZRX1200S城

保存 

2011年04月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

a href="http://history.blogmura.com/"><img src="http://history.blogmura.com/img/history88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 歴史ブログへ" /></a><br /><a href="http://history.blogmura.com/">にほんブログ村</a>
 
慶長5年(1600)7月17日
広島城から大阪城西の丸に毛利輝元が入りました。
 
吉川広家は輝元の大阪城入りを阻止しようと急使を送ったが間に合いませんでした
 
広家は宍戸元継、益田元祥、熊谷元直らと連名で、徳川の重臣、榊原、本多らに
輝元は何も知らず大阪に入っただけで石田三成等の陰謀には関係ないと弁明の
書状を送付しました。
 
結局広家が輝元の代将として関が原に行くのですが、広家は西軍が勝つとは思えず、毛利本家安泰の為、少し前より黒田長政を通じ家康に工作を進めていました。
 
家康は広家の友の黒田長政が東国にいたので、輝元の大阪城入りの真意を
問いますが、長政は照元が戦う意志は無いことを告げました。
 
 
これを受け家康は満足し返書を与えました。
 

         長政はこの返書を受け
広家に
「今度の輝元の態度は安国寺恵瓊の策略だと家康も思っているので輝元に家康に意を通じるように尽力されたい。
そちらの態度次第で家康の関係は調整する。
戦いになって家康が勝ち目になってからではとりなしようが無いから今のうちに早く考慮を煩わしたい。」
との書状を送りました。
 
広家はこのたびの戦では中立となるので、毛利領は従来通り
との確約の書状を家康より受け取りました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
毛利軍は戦わずして西軍の敗戦となります。
 
さっそく家康は輝元は大阪の諸奉行の陰謀に加担し、かつ四国に出兵、又、
大阪城に入城しているとの理由をこじつけ、毛利領は従来通りの書状を反故にし
毛利領八カ国を没収、防長二カ国を広家に与えるとしました。
 
広家は驚き交渉に奔走したためなんとか
 
「本来ならばその罪軽からず、切腹除封は免れざるところなれど、とくに この度
特別の計らいをもって助命の上、旧領の二カ国を分かち与える」
ということになりました。          慶長五年(1600)十月十日付け
 
 
 

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ