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老いてなお

「詩人・滝瓢水」 

2017年08月25日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

          
馴染みの喫茶店での友人たちとのやりとりを
楽しんでいたら、いつも顔を合わせるコーヒー
仲間のKさんと「禅」の話になった。 

しかし「禅」に関しては全くの門外漢である私には
「チンプンカンプン」でも、「詩人・滝瓢水」の
話には感ずるところがあったので調べてみた。
 
瓢水の詠む句は味わい深く、
人生哲学に近い事柄を主題にしているものも多かった。

その一つ
ある時1人の旅の僧が瓢水の評判を耳にして
瓢水を訪ねたことがあった。
  
僧は瓢水に会うと、その見識について問おうとしたのだが、
   あいにく瓢水は風邪を引いており、
「今からちょっと風邪の薬を買ってくるから、
 ちょっと待っててもらえないか」と言われてしまう。

これを聞いた旅の僧は、
「風邪くらいで一々薬を求めるなど、
何を弱気なことを言っているんだ。

人の生き方を説く素晴らしい
見識の持ち主だと聞いて来たのに、とんだ嘘であった。
 
そんなに命が惜しいのか、情けない」
と、腹を立てて瓢水の帰りを待つことなく去ってしまった。

瓢水が風邪薬を買って帰ってくると、
待てと言ったはずの僧はもういない。

はて? どうしたのかと思っていると、
傍にいた人が事の一部始終を教えてくれた。

なるほど、怒って帰ってしまったのか。

それならば と、瓢水は一句紙にしたためて、
「申し訳ないのだが、先ほどの僧にこの句を
渡してあげてほしい。
          
まだ追いかければ間に合うかもしれないから」と頭を下げた。

そして何とか追いつき、瓢水の句が書かれた紙を渡した。
   
僧が受け取った紙を見ると、そこにはこう書かれていた。

「浜までは海女も蓑着る時雨<シグレ>かな」
     この一句で、旅の僧は瓢水の
評判が本物であることを知ったのだった。

人間、死ぬまで、生きている限りはせいぜい身をいとい、
   よく生きることを心がけなくてはいけない。
 
         
そういえば正岡子規も似たような
とても意味深い言葉を残している。

「私は今まで禅の悟りというものを誤解していた。
   
悟りというのは、いかなる場合でも平気で
死ぬことかと思っていたが、それは間違いだった。

悟りとは、いかなる場合でも平気で生きることであった」

瓢水の句とともに子規の言葉を読むと、
2人とも禅僧ではないのに、
 禅僧よりも禅の神髄を体得しているかのようで、
なるほどなぁと頭を垂れてしまう。


        From zen- essay.com
  



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