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平成の虚無僧一路の日記

梶田昌艶とのご縁 

2011年03月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



今日 3/23(水)夜7時から「梶田昌艶」先生の通夜が、吹上の
「愛昇殿」で行われる。

先生の作品の『 紫の幻想 』を 久々に聞いてみた。すごい
演奏だ。録音は10年前。先生は70歳を過ぎて、なお気迫満々。
私も50代で、まだ若かった。「よく吹いたな」と 我ながら
感心する。


昭和47年頃だったか、NHK・FMラジオ『現代の日本音楽』で
この『紫の幻想』を聞いた時、私は椅子から ころげ落ちるほどの
衝撃を受けた。

昭和40年代は、いわゆる「現代音楽」というジャンルが、洋楽、
邦楽を問わず、熱病のように流行っていた。それは、ノーリズム、
ノーメロディ、殺伐として無味乾燥な、作曲家と演奏家の自己
満足的な音楽でもあった。

それは、60年70年安保闘争の影響もあって、昭和30年代のナショナ
リズム(国粋主義)、 日本的な 情緒的、感傷的な センチメンタ
リズムを破壊するという思想的なものも色濃くあった。

それが 昭和47年、「浅間山荘事件」で、学生の過激な闘争も収束に
向かっていた。

そんな時代背景の中で、NHKの『現代音楽』で流されたこの曲は、
それまでの分けのわからぬ音楽と違って、はっきりとメロデイが
あったのだ。そのメロデイは、私の脳裏に こびりついた。

当時、録音をしていなかったので、『紫の幻想』という曲名だけは
記憶できたが、作曲者も演奏者もわからず、ずっと探し求めてきた。

それから25年後、私は転勤で名古屋に来、紹介で「梶田昌艶」先生
宅を訪ねた時、『紫の幻想』の 手書きの譜面が 床に置いてあるのを
見つけて、私は、また 飛び上がるほど驚いたのだ。

25年、脳裏に焼きついていた曲。その作曲者にめぐり会えたのだ。
その5年後、私は会社をリストラ退職し、無職となった。自由な
時間ができたので、梶田先生から「CDの録音を手伝ってほしい」と
依頼された。

その時、ある方から「大変なことになりますよ」と忠告された。
そう、CDの製作には2年 かかったのだ。毎週毎週 通い、一曲の
録音に 何十日も費やされた。 私は時間はあるが、収入が途絶え、
借金地獄で スタジオに通う金も無い日々を送っていた。当然
ギャラをいただけるものと思っていたが、無報酬だったのだ。

そのうちに、梶田先生も破産し、借金で家屋敷を奪われ、市営
住宅に移り住むことととなった。

CDの製作代は、十七絃を担当したAさんが全額を立替えられた。
しかし、何度 録音をやり直しても、梶田先生は「気に入らない、
こんな演奏では、世に出すのは 恥ずかしい」とOKを出されない。

みなホトホト疲れはて、あきれはて、先生を説得して、Aさんは、
自分の気にいった録音音源を使って『色は匂えど』というタイトルで、
「大日本家庭音楽出版」から市販した。2〜300万は出資したようだ。

そのCDには、私の尺八は入っていないので、私は私で、無断で
『艶』というタイトルでCDを製作した。その時出資してくれたのが
鈴花。彼女もまた、梶田先生の芸に深く感動して、その後、梶田
先生に入門した。

そんなこんなで、梶田先生は納得していない演奏なのだが、今
聞いてみると すごい演奏だ。あれだけの 演奏ができる人は、
梶田先生の他に 私は 知らない。2年間、何十回も録音をやり
直しただけに、私の尺八もすごい。今ではとてもこんな風には
吹けないのではないかと思う。

梶田先生も私も、すべてを失って 塗炭の苦しみの中で作り上げた
地の叫びのような演奏だ。メロデイの美しさだけでない、喜びも
哀しみも、哀愁も艶やかさも、力強さも感じる。

ぜひ一人でも多くの方に聞いてもらいたいのだが、さてはて。
そのうちホームページで公開しようと思う。

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