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上海大学シニア留学日記

超巨大地震 

2011年03月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


今日は少し風はあるが、空が真青に澄んだ穏やかな日だ。



このところ料理づき、今日も昼食にツナとほうれんそうの

和風スパゲッティを造る。



食後、散歩に出る。田園調布の駅前に来ると、「イケア」

行きのバスが停車していた。そう言えば、春のバーゲンを

やっているなと思い、思わずバスに飛び乗る。



第三京浜の横浜港北インターを降りたところに「イケア」

がある。上海でも時々買物をした「イケア」を私は好きだ。



お店に入って2分もしたかしない頃、あの巨大地震に

遭遇した。私はソファー売場にいた。生まれて初めて

こんな大きな地震を体験した。立っていられない。

私は思わず、梁の下の、防火扉を背にして座りこむ。

すぐ傍には若い女性3人組が抱き合い、悲鳴を

あげている。



地震はかなり長く続く。剥き出しの天井に吊り下げられた

鉄板の板状の物が大きく揺れている。これが落下して

きたら、命は無いだろうと思う。周囲のディスプレイの

小物が音を立てて落下する。ふと気が付くと、周りには

誰もいない。私も慌てて屋外に出ることにした。







(イケアの外に避難する人達)



屋外に出ると、すぐに建物から離れる。その時点で、

避難客は200人位。この店の特徴で、若い子連れの

カップルが多い。そのうち、従業員も避難して来た。



20分もした頃、従業員が飴やチョコレートを配り始める。

外は風が出て来て、少し寒い。すると、従業員が

惜しげもなく商品の大判のバスタオルや掛け布団を配り

始める。さらには、ポテトチップの袋やミネラルウオーター

を配り始める。







(タオルや布団が防寒用に配られた。)



迅速にこのような対応をされると、安心感が出て来る。

従業員はレストランのコックまでが総出で対応している。

見事な迅速な対応であった。さすが世界の「イケア」だ。



避難場所で私の隣に立っていた女性が携帯での情報を

教えてくれる。東北地方でマグニチュード8クラスの地震が

発生していて、東京も震度5強だと言う事がすぐに解った。



この女性、ここから徒歩1時間ほどの綱島に住んでいると

言う。みんな家族と携帯やメールで連絡をしようと試みるが、

繋がらない。



イケアの前の道路はだんだん渋滞して来ている。

鉄道も全部停まっているとのことだ。

このまま、イケア前で避難していても進展が見られない。

最悪、イケアで面倒を見てくれるだろうが、家には今日中に

帰れなくなる。



そこで、私はこの女性を同行して綱島まで歩いて帰る

ことを決断した。私はそこから綱島海道を歩き、家に

帰れば4〜5時間で帰り着けるだろう。

他の皆が避難所で待機する中、早い決断だった。



まだ4時で明るい。途中、この女性は茨城を旅行中の妹と

連絡が取れる。しかし、茅ケ崎の実家には連絡が取れ

ないと言う。私も歩きながら家内と連絡をとるが電話が

通じない。



歩き初めて30分もした頃、反対側から歩いて来た人が

携帯で何か話している。私も、もしやと思い、家内に

電話を入れると偶然繋がり、家内と義母が無事である

ことが解った。しかし、長男と次男とは連絡がつかない。



あとで解ったがことだが、長男も次男も携帯はソフトバンク。

私が何度も打ったメールも届いていなかった。

向こうから打ったメールも携帯がドコモの私や家内には

届かなかった。



1時間半ほど歩いて綱島に到着。ここで女性と別れる。

別れしな彼女はご一緒させていただいて、不安感を感じ

なくて済みましたと何度もお礼を言われたが、私に

とっても正にその通りであった。お互いさまだった。



綱島から一人で歩く。だんだん薄暗くなってくる。信号も

停電で点灯せず、交差点では警官が交通整理をしている。

足腰が疲れたので、喫茶店やレストランで休憩したいと

思ったが、停電でどの店も営業していない。コンビニも

真暗で、営業していない。私はイケアで貰ったペットボトルが

役に立った。



真暗になった頃、今度は東京方面の方から歩いて帰宅

してくる人数が増えて来た。日吉を過ぎ、元住吉に近ず

いた頃、漸く灯りが見えて来た。この辺りから停電が

復旧したようだ。



途中、公衆電話で家に掛けてみる。すぐに通じた。あと

30分で家に着くと伝える。携帯は運が良くなければ

繋がらない。災害時は公衆電話が復旧が早いと

聞いていたが、正にそうだった。



8時過ぎ、家に漸く到着した。

机の上のパソコン、プリンター、オーディオや棚の本等が

床に散乱していた。

次男からは家の固定電話に連絡が入ったそうで、横浜に

いて、歩いて帰るとのこと。私より1時間遅れて、到着した。

次男もユニクロで買物をしている時に地震に遭遇した

そうで、道中地割れも見たそうで本当に怖かったと

語っていた。



テレビでは宮城県を中心とした東北太平洋沿岸部の

惨憺たる惨状を報道している。私の家内は宮城県に

親戚が多い。ただただ無事を祈るばかりだ。



那須塩原に単身赴任している長男から、やっとメールが

入る。自分は無事だ、みんなは大丈夫かという内容で

ほっと胸をなでおろした。

しかし、私の打ったメールは届いていないようだった。



夜12時近くになって、やっと長男からの電話が通じる。

那須塩原は震度6で、停電していて真暗で、マンションは

家具が散乱し、住民は駐車場の車の中で避難している

ので自分もそうしている。だが、車のラジオで情報を

聞いていたら、バッテリーがあがって、ラジオも聞け

なくなったそうだ。また、携帯のバッテリーも心配なので

これで電話も切るとのこと。



長男は真っ暗闇の寒さの中、一夜を車の中で過ごす

ことになる。でも、どうしてやることも出来ない。

東北地方で、悲惨な状況で助けを待って戦っている

人々を思えば、そんなことは言ってられない。

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