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日本人医師肥沼信次さん、世界大戦終結後、伝染病蔓延のドイツで、懸命の医療活動で、 多くのドイツ人を救われました。 

2017年02月08日 外部ブログ記事
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    寒い日が続いていますが、
    熱い心の日本人医師を、知ることが出来、感謝です。

    
先日、
熱い心の持ち主
第二次世界大戦後

日本に帰国するより、
ドイツに残る道を選び、 
ドイツの街で、
懸命に、伝染病に罹った人たちの治療をし、
命を救った医師・・・
その人は肥沼信次医師。  

読売テレビで、
素晴らしい日本人
肥沼信次医師のことを紹介する番組がありました。
ドイツが愛した日本人、ある医師の物語
〜佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語〜 です。
http://www.ytv.co.jp/germany/

       感激しました。
    
第二次世界大戦終結後のドイツでは
最悪の衛生環境のため伝染病が蔓延。
貧困と不衛生の中、チフスが大流行して
毎日多くの人が死んでゆき、
そんな東ドイツのヴリーツェンという町で
発疹チフスの治療のため
献身的な医療活動をして
多くのドイツ人の命を救った日本人医師が居ました。

その人は肥沼信次医師。
伝染病医療センターが開設されましたが、
町の医者はみな戦争に駆り出され一人も残っていなかった。

肥沼医師は伝染病医療センターの所長に任命されましたが、
センターの医師は肥沼一人。
赤十字から派遣された助手が一人、看護婦7人、調理師3人で
       患者に対応しましたた。
チフスは大流行して看護婦のうち5人はチフスで亡くなりました。  

ベッドも充分ではなくクスリも僅かしかなく、殆ど何も無い状態で
彼はドイツの人達を親身になって黙々と治療。
交通の便が悪い状態の時に
ベルリンにクスリを求めて走り、
患者のために食料を求めてバルト海沿岸に奔走。

汚い・臭い不衛生な所へ、
往診に出向き懸命に治療に当たり、
多くのドイツ人が彼の治療によって
       命を救われました。

一人でも多くの人を救いたいと
不眠不休の日が続き、
治療にあたって半年目、
肥沼医師もチフスに感染しましたが、
チフスの治療薬や注射を自分自身で使うことを拒否し、
「クスリは他の人に使ってくれ」と看護婦たちに伝え、
      1946年3月8日に亡くなりました。

彼自身が、東京大災害の火炎の中を、
お婆さんと共に、逃げ回った、という経験から、
災難に苦しむ人達を、放って置けなかった!!!

そのことを、
ドイツの人は今も覚えて居て、
3.11東日本大震災のときは、
いち早く、義援金を送って下さいました。

崇高な志し・心根を持った先人は、
私たちを、今も、励まして下さいます。

彼の治療で助かった人は実に多く、
人々は肥沼医師に非常に感謝しその恩を忘れずにいた。
★・・・・・・・自分の命と引き換えに
私たちドイツ人を助けてくれた日本人・肥沼信次・・・
     と人々は賞賛、感謝した。
冷戦の東ドイツ時代は秘密警察の問題もあり
肥沼医師のことを公に賞賛することは出来なかった
が、
その墓は病院関係者や村民によって
ずっと大切にひっそりと守られていた。
1994年7月ヴリーツェン市議会は
肥沼医師をヴリーツェン名誉市民に選び、
市庁舎の正面玄関の壁には
彼の功績を讃える“記念銘板”が飾られました。
               ・・・・・・・★

肥沼医師のことが日本で初めて知られたのは
一つの新聞記事がキッカケだった。
立教大学の村田教授がドイツの郷土博物館から
肥沼医師の親族探しを依頼された。
朝日新聞「マリオンの尋ね人」(1989年)に
日本人・医師・故コエヌマ・ノブツグをご存知の方はいませんか?
と。
肥沼医師の弟・栄治さんは
兄の信次さんの消息を懸命に探しており、
この新聞記事で兄の消息を初めて知った。

栄治さんは1994年リーツェンを訪問し
市庁舎の「肥沼信次博士記念式典」に出席、
栄治さんがリーツェン市の送った
桜の苗木100本が成長したときに
一つの通りを「肥沼通り」と名づけると議会で議決された。
肥沼医師は
「日本の桜は大変きれいです。
みんなに見せてあげたいな」とよく話されていたそうです。

    近く、日本の安倍首相が、
    米国のトランプ大統領と、ゴルフ外交をされるらしいですが、
  志を高く、肥沼医師の墓参をしてから、
     米国を訪問されては、どうでしょうか・・・?!m(_ _)m

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